共生という価値観

前回の続きです

世の中のあらゆる人が幸せになる

価値観

世の中のあらゆる人が

共通して抱くことができる

幸せのあり方

僕はこれを

共生

と言いましたが

では共生とは

一体何でしょうか?

どんな価値観なのでしょうか?

共生とは

読んで字のごとく

共に生きる

です

(はぁ)

当たり前ですね

共に

とありますので

少なくとも

1人の話ではなく

2

もしくはそれ以上の話

だということは容易に想像がつきますね

そして

2人以上の人たちが

互いの存在を認め合う

それぞれの強みや持ち味を生かし合う

それぞれの不足を補い合う

というふうになっていくわけですが

実際そうしたあり方を求めると

大体不和が生じるものです

なぜか?

言わずもがなですが

人はそれぞれ違うからです

違う価値観を持っているからです

まず

世の中のあらゆる人だとか

古今東西、万国共通

なんて大きく捉えなくても

ある程度の人数

もしかしたら

2人とか3人集まっただけでも

意見や価値観が

ピタッとまとまることは

そうたやすいことではありません

それくらい

人は皆それぞれ

違うのです

極論ですが

前提として

人は誰一人

同じ価値観を持ってはいない

ざっくりと括ったり

カテゴライズはできますが

そもそも人は皆

生まれ育った環境や

培った経験が

違うのです

つまり一人一人に

その人独自の個性や持ち味があって

基本的には十人十色なのです

そうした前提に立った上で

あらためて

共生です

共に生きる

です

その本質は

相違点を尊ぶということ

自分と違う価値観を容認するということ

個がそれぞれ立っているということ

それが

共に生きる

ということだと僕は思います

って

言うは易し

実際これはかなり難しい話

僕ら会社内でも

よく同じ価値観を持った子を

採用しようとか

社内で価値観を揃えて共有しよう

なんて逆のことをやってるくらいですからね

その方が正直

話が早いし

手間がかからないんですよね

まあ矛盾した話ではありますね

でも

理屈上は

そういうことなのです

世の中の

あらゆる人を幸せにする価値観とは

一人一人違う価値観を

お互いが認め合うこと

それ自体だということ

それがすなわち

共生

なのです

さらには

切り捨てない

最後の最後まであきらめずに

互いが生きる道を追求するという

姿勢、プロセスにこそ

共生の真意があるのかなと思います

ある一定数の人たちが集えば

意見は大体二分されます

おのずと

多数の意見と

少数の意見に

なんらか分かれます

メジャーとマイナー

ボリシェヴィキとメンシェヴィキ

そうしたときに

いかに少数派を切り捨てずに

折り合いをつけるなどして

共生することができるか

その度合いが

社会や組織の成熟度を表すのであり

多様な価値観こそが

豊かさを表す尺度なのではないか

僕はそう思います

まあこれは

反対意見を常に保有させておくだけの

懐の深さ

器の大きさが

試される話ではありますね

人は自分と違う意見を

つい排除したがるものですからね

そのくらい

共生は

難しくてしんどいこと

そして

そうした相入れない考え方や意見が

混在し対立しながらも

切磋琢磨し合う状態を

維持することが

健全なのであって

真に目指すべきあり方と

言えるのかなと思います

というわけで

いやあ

すっかり独りよがりな

長話になってしまいました

おまけ

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