管理、監視というあり方

ふと

先日1011日に

読売新聞に掲載された

【コロナ禍と基本的人権】より

医療社会学者、美馬達哉氏(1966-)

↓↓↓

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インタビュー記事の一部を

以下に転載

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フランスの思想家、ミシェル・フーコー(1926-1984)は、主著の「監獄の誕生」でペストに襲われた中世欧州の都市の風景を描き、「近代」の原像として提示しました。

隔離・検疫のため、街区を細分化した上で外出を禁止し、世話人が違反者の有無を監視します。

監視により、人々は規律を調教され、管理されます。

ある意味で、秩序を行き渡らせる「理想的な」モデルとも言えます。

フーコーはこの管理・監視という側面に着目し、感染症による都市封鎖が、近代社会の原型となったと論じました。

監視こそが近代社会で人々を服従させ、秩序を維持する「権力」の中心に位置するとみなしたからです。

近代の監視を象徴する仕組みとして、フーコーが挙げるのが、19世期に運用が始まったパノプティコンという監獄の一望監視装置です。

中心にある監視塔の周囲に多数の独房を配置したものです。

教室で先生が後ろに立って生徒を自習させているイメージです。

生徒は先生が誰を見ているのかわかりませんが、自分が見られている可能性があるのできちんと机に向かいます。

囚人も生徒も近代社会を生きる我々も「常に監視されている」という意識を持ち、自らを監視するようになります。

コロナ禍という非常時も、隔離・検疫、それに通常時よりも強い自らの監視が、都市を管理する手段となり、人々は外出の自粛などの新しい行動様式を守りました。

ただ、行きすぎた監視も出現しました。

閉店しない飲食店をSNSなどで非難する「自粛警察」です。

不自由な生活への不満が「通常」を謳歌するように見えた人々への妬みとして、蔓延していたことの表れです。

美馬氏いわく

フーコーは監視を

あくまで客観的に捉えていて

 権力者が秩序を維持するための

理想的な手段とみなしていたようですね

う〜ん

しかしなんとも

監視というのは

あまり響きのいい言葉とは言えず

この

力で押さえ込むやり方は

強権発動的な意味合いが強くて

僕はやはりどうにも

違和感を拭えませんね

とはいえ

わが業界のことを振り返ってみて

例えば

今回のコロナ禍における

私どもホールの休業要請に対する

遵守可否の件であったり

あるいは

ただいま業界における

目下最大の懸案事項となっている

高射幸性遊技機撤去可否の件であったり

において

上述のような

管理、監視、はたまた罰則の適用のような

手段によらずに

円満に解決できるかというと

う〜ん

なかなか妙案が思いつかないのも

事実ですよね

かといって

力で押さえ込むやり方が

果たして功を奏するかというと

これもまた

なんともわかりませんがね

まあ

管理、監視というあり方が

近代社会における

ある種の象徴だとすれば

その非人道的、非民主的な側面を

いかに払拭して

あるいは形を変えて

これからの時代にフィットさせて

人々の共感を得ていけるか⁈

翻って

私ども業界内においても

立場や垣根を超えて

一致団結を図っていく上で

管理や監視というあり方から

いかに脱却していけるか⁈

というわけで

いやはや

まだ当分

模索状態が続きそうですね

つくづく

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