映画『セブンス・コンチネント』
1989年製作のオーストリア映画
『セブンス・コンチネント』
↓↓↓
監督、脚本は
『ファニーゲーム』『ピアニスト』などで知られる
オーストリアの鬼才
ミヒャエル・ハネケ(1942-)
↓↓↓
本作が彼の記念すべき
長編劇映画のデビュー作となります
って
観る者の感情を揺さぶり困惑させる作風は
デビュー作にしてすでに確立している感がありますね
ハネケ節炸裂の問題作です
映画は三部構成で
1987年、88年、89年における
夫、妻、幼い娘のある中流家庭の日常を
それぞれ断片的に映し出していきます
↓↓↓
淡々と何気ない家族の生活風景
積み重ねられる表層的な行為の数々
しかし物語が進めば進むほど
次第に不穏な空気に包まれていき…
夫、妻、娘それぞれに時折見え隠れする
感情のひだ
些細な出来事の蓄積が
やがて家族にある変調をもたらし
そうして彼らの
いわば存在理由に
黒い影を落としていく…
↓↓↓
と
あえて結末をネタバレしてしまいますが…
映画は
家族が一家心中する様を捉えて
終わりを告げます
本作は
そうした悲劇に至るまでの経緯を
3年間遡って描いているのですが
本編を観るかぎり
決定的な原因がどうにも見当たりません
一家は裕福で一見何不自由なく
平穏に暮らしているように見えます
まあしかし
洗車する車中で母が何を思ってか泣き出したり
↓↓↓
背景はよくわかりませんが
人生に対する
ある種の諦念のような
もっと言えば
漠然とした不安のような
いわばペシミズムが画面全体を覆っていて
観ている側は
度々どんよりとした気持ちにさせられるのですが…
劇中の最後のパート
1989年のある日
夫は突然、会社を辞職
夫婦で「オーストラリアに移住する」
と言って預金を全て引き出します
そうして工具を買い揃えて帰宅した一家3人は
唐突に
家の中のものを
片っ端から破壊していくのです
↓↓↓
家具や家電を壊し
レコードを折り
服を引き裂き
本やアルバムを破いていく…
そして極めつき
観ていてこの上なく不安を掻き立てるシーン
あろうことか
銀行から引き出したお金まで
トイレの便器に流してしまいます
↓↓↓
社会を構成する秩序
その暗黙のルールを犯すことによる
言え知れぬ良心の呵責の念が
自ずと観ている側にも及びます
そうして唯一残したテレビを3人で見た後
娘、母の順に服毒
最後に父が2人の死を見届けてから
自らも息を引き取るのです
↓↓↓
あらためて本編には
一家の心の内を明かす余計な説明が一切省かれ
その分、行為そのものの断片的なショットが延々と映し出されます
映画自体は
シーンとシーンの間に黒味が入る構成で
ゆえにリズムが奪われるような心地の悪さを覚えます
つまるところ本作に底流するのは
感情の欠如
人物たちが何を考えているのか
どうしてそのような行動をとるのか
いまいち理解ができません
一体どれほどの絶望が一家に及んだのか
一家心中に至る背景が
う〜ん
どうにも読み取れず違和感を拭えません
と
ハネケ監督はこの点について
とても興味深いことを語っています
いわく
監督の自分でもその理由がわからない、と
ええっ⁈
監督の仕事はあくまで行為を映し出すのみ
ことの始終を提示するのみ
決して是非は問わず
答えは観ている側に委ね
一人一人が自由に解釈してほしい、と
う〜ん
人生に対する絶望とひと言で言っても
よくよく人それぞれで
理屈ではないのかもしれません
ふとしたきっかけや何気ない言葉が引き金となって
あるいはもっと広く
世の中を、未来を憂いて
そのような決断を下してしまうことだってあるかもしれません
そう考えますと
本編から
3人が一家心中するに至った
そのリアルなニュアンスを
なんとなく
理解できるような気が
しなくもない
って
そう思わせるだけの映像の力
ヒリヒリとした緊張感を帯びた容赦のない描写が
リアルな迫真性
確かな説得力を生み出して
いやあ
圧倒させられます
つくづく
本作に見る視点の面白さ
デビュー作にしてこの完成度
何よりハネケの作家性
ただただ驚くばかりです
ちなみにタイトルの『セブンス・コンチネント』は
「第七の大陸」と訳しますが
実際、地球上に大陸は6つしか存在せず
劇中で度々「オーストラリア」と呼ばれる場所が示され
架空の映像が映し出されるのですが
↓↓↓
観終わって
ここが死後の世界を指していることに気がつきます
いやはや
というわけで
様々な示唆に富んだテーマ
観る者の思考を巡らせ、
想像力を喚起させ
そして戸惑わせずにはいられない
ハネケの挑発的な一本
あらためて傑作です
この記事へのコメントはありません。