諸法無我

昨日の続きを懲りずに少々

仏教用語で

釈迦が悟った真理の一つに

「諸法無我」

というものがあります

以下ウィキペディアより

少々長いですが

かいつまんで引用

↓↓↓

諸法無我は

仏教用語の一つであり、釈迦の悟った項目の一つである。

すべての存在には、主体とも呼べる「我()」がないことをいう。

「諸行無常」といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。

ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何ものかをとらえようとしたり、何ものかが変化してゆくのだと考えようとする。

その変化の主体を想定してそれを我()という。

諸法無我は「我」を含むあらゆる存在は「実体」ではありえないことを主張する。

我々人間は、知らず知らずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。

しかし、諸法無我はそれこそ「我執」であるとして退け、変化をその変化のままに、変化そのものこそ「私」なのだと説くのである。

この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

一切のものには「我」としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。

このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。

とあります

う~ん

かなりわかりづらい説明かと思いますが

要するに

世の中のすべてのものは

何かしら他と因果関係を持っていて

独立して存在するものなどないということ

そしてそれは

自分の命や家族

自分の財産や所有物

なども含まれていて

それらは決して

自分のものではない

全ての事物は

互いに影響を及ぼし合って存在していて

自然の摂理と同様

絶妙なバランスの上に

成り立っているということ

さらには

自分という存在そのものすら

自分のものではない

独立した主体ではなく

実は互いの関係性の中で

生かされた存在であるということ

自分という存在は

幼い頃に自我が芽生え

自分の肉体や精神の成長を通して

自分という存在を意識し自覚するようになる

それを上述の通り

「私」と呼び

それを実体としてとらえるのですが

諸法無我の真理によると

「私」というのは実体ではなく

「我」というものは

他との関係性において初めて存在する、と

まあ

輪廻転生

生まれ変わりにも通じる話ですね

そう考えると

仏教において

自分という存在は

肉体として

よりもむしろ

意識の方

でもそれは

それ自体では実体がなく

他との因果関係の中で変化し続けながら

共に生かされて生きている

という自覚を持つことで

初めて自分というものが存在するのだ

というわけで

いやあ

ますますわかりづらくなった感は否めませんが

僕自身

理解できる部分とそうでない部分がありつつも

この世に生を受けたからには

与えられた使命を全うしようという気持ちを

より一層強く抱き

そしてつまるところ

つくづく

共生

の本質に通じる話だなぁと

ひとり納得した次第です

おまけ

今日は日中から

月が綺麗でしたね

↓↓↓

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