映画『ヴェルクマイスター・ハーモニー』
映画評
2000年製作のハンガリー映画
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』
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監督は
知る人ぞ知るハンガリーの鬼才
タル・ベーラ(1955〜)
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その未知なる映像表現に世界が驚嘆
本作はタル・ベーラの底知れぬ才能を世に知らしめた傑作です
…
ハンガリーの静かな田舎町に唐突に出現した
移動サーカスのトラック
荷台の中には見世物の巨大なクジラ
そしてトラックにいる“プリンス”と称する男の扇動的な声とともに
次第に町は騒然とし始め
やがて人々は暴徒と化していく…
映画は
天文学が好きな郵便配達の主人公ヤーヌシュを狂言回しに
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不気味な静けさをはらみながら
刻々と変容していく町の姿をとらえます
巨大なクジラのグロテスクな異形
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影と声しか映らない扇動者“プリンス”の存在
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「未知の災いに見舞われた」
「大勢の難民が恐怖ですくんでいる」
「何かが起きる…」
ひそひそと囁き合う人々
陰鬱で不穏なトーン
増幅する不安
揺らぐ秩序
暴動
破壊
虚無…
映画は全編
深遠なモノクロ映像による様々なイメージやメタファーで散りばめられ
まさに厭世観に覆われた終末論的な世界観を提示してみせます
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本作からは
調和を表す天文学の視点や
ヨーロッパやアジアに挟まれた東欧の小国ハンガリーの
激動の歴史を重ね合わせて見ることもでき
また監督はいみじくも本作のテーマを
「東欧の歴史に横たわる永遠の衝突」
「本能的な未開と文明化を巡る数百年の争い…」
などと語っていて
なんとも重層的な構造を有していますね
さらに特筆すべきは
2時間25分という上映時間に対して
わずか37カットという大胆極まりない長回し
タル・ベーラの稀有な作家性を示す最大の所以です
主人公ヤーヌシュがたゆたうように街を徘徊する様を
移動撮影で延々とらえたシーンが度々ありますが
観ていて不思議な余韻と陶酔を覚えます
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とにかく本作には
観る者の意識の奥底に沈殿するような
悪魔的なまでの長回しが多用されています
例えば不吉な予兆としての移動サーカスのトラックが
夜の町にやってくるシーンや
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また暴徒と化した群衆たちの無言の行進を
気の遠くなるほどの長回しでとらえた
不気味なシーンなどなど
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なんというんでしょうか
シーンそのものは
ただ歩いているだけ、トラックが通り過ぎるだけ
あるいは他にも
人々が広場でたむろしているだけ
子供たちが遊んでいるだけ
…だったりするのですが
この極めて単調な行為そのものを
延々長回しで映し出すことによって生じる
ある種の異化作用
そこから漂ってくる
尋常ならざる気配
異様な空気
狂気…
見えている映像以外の“何か”をついつい勘ぐってしまう
そんなイマジネーションが
悪夢の連鎖のように次から次へと喚起されてくるのです
そして映画は
わずかなセリフと断片的な状況描写で
人々の営み
それが徐々にいびつに傾いていき
やがて蛮行へと至る様を
ただ淡々と見つめていきます
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暴虐の果てに男たちが見た
浴槽に佇むやせ細った老人…
と
町全体が破壊と暴力に包まれ
無秩序な状態に陥るも
その映像表現はどこか観念的で慎しみ深く
静謐ですらあります
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つまるところ
本作を解くキーワードは
“秩序と破壊”
映画の端々でその両極が内包されているのを認めます
横たわる巨大なクジラが象徴的なラスト
破壊の後の空虚なまでの静寂
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ちなみに
タイトルにあるヴェルクマイスターとは
17世紀に実在したドイツの音楽家で
現在一般的となっている
“1オクターブを12の半音で等分する”音律の技法である
平均律を編み出したことで知られる人物
劇中、主人公ヤーヌシュが世話する老音楽家エステルは
この平均律を神への冒涜だとして強く批判しています
ふと
秩序ある音のみで構成された世界
その画一的で小さくまとまった枠組み
…を破壊し
混乱の中から新たな世界を見出そうとする
本作はそんな監督の
再生へのビジョンの表出と見ることができましょうか
というわけで
いやあ
つくづく恐るべき映画
稀に見る傑作です
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