映画『カッコーの巣の上で』
1975年製作のアメリカ映画
『カッコーの巣の上で』
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1962年に発表されたケン・キージーのベストセラー小説を
チェコ出身のミロス・フォアマン監督が映画化
その年のアカデミー賞主要5部門を制覇した
言わずと知れた名作中の名作です
たま〜に無性に観たくなるんですよね
今更感満載ゆえ以下、ネタバレ御免
刑務所での強制労働から逃れるために精神異常を装い
オレゴンの精神病院に入ったマクマーフィは
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看護婦長ラチェッドによって
厳しく統制された病棟のあり方に
強い反発を覚え
ひとり規律を破る行動を繰り返していきます
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最初は従順で無気力だった精神病患者たちですが
次第にマクマーフィに影響されて
生きる喜びや自立心を取り戻していきます
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と同時に
病棟内の秩序がにわかに乱れ始め…
映画は
ラチェッドとマクマーフィの対立構図を通して
体制に抗う個人の自由と尊厳を
象徴的に描き出しています
…が
話はそう単純ではありません
マクマーフィを危険人物とみなした病院側は
彼を鎮めるため電気ショックを与え
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そうしてある決定的な事件を機に
最終的にロボトミー手術を施し
結果、マクマーフィは廃人となってしまいます
映画は
主に1940年代に精神病患者への画期的な治療法としてアメリカで盛んだった
前頭葉白質を切除するロボトミー手術などの描写を通し
当時の精神医療の非道性を
少なからぬ衝撃をもって世に知らしめました
また本作は別の見方として
ソ連の軍事介入によってチェコの民主化が弾圧された“プラハの春”を機に
アメリカに渡り移住した経緯を持つ監督フォアマンによる
国家権力への痛烈な批判とも捉えることができます
…が
監督は本作について
以下のようなコメントを残しています
「この作品で私が描きたかったのは
体制告発でも精神病院の恐怖でもない。
人間と、その存在の素晴らしさである。」
と
つくづく何はともあれ
マクマーフィを演じた主演のジャック・ニコルソンの
なんとまあパワフルで魅力的なことか
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自由奔放で反骨心旺盛
その変幻自在な表情と横溢する生命力
まさに圧巻の熱演です
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さらにはラチェッド役のルイーズ・フレッチャーが
ニコルソンの“動”と対照的に
終始抑制された“静”の演技で観る者を圧倒
その思慮深くも底冷えする無表情な佇まいが
リアルな説得力をもたらします
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2人は正反対ながら
実は似た者同士
つまりは振り子の両極で
プラスとマイナスの磁力が互いを引き寄せ
度々ある種の化学反応を引き起こします
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クライマックスの衝突の凄まじいまでの濃度
一体どこからどこまでが芝居なのか
容易に判別不能なほどの迫真の演技の応酬です
また脇を固める患者役たちが
皆、本当にリアルで素晴らしい
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精神病院という閉鎖された空間を
個性豊かな面々が生き生きと彩ります
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そして中でも本作の重要なキーパーソンが
自らの意思で口を閉ざし続ける
ネイティブアメリカンの大男、チーフ(=酋長)です
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どういった経緯で精神病院にいるのか
定かではないのですが
マイノリティとして社会の隅に追いやられ
感情を押し殺しひっそりと生きてきたであろうことは如実に伺い知れます
が、そんなチーフが
マクマーフィとの交流を通して
やがて誇り高きネイティブアメリカンとしての血に目覚めるのです
多分にスピリチュアルな反体制の気運
あらためて
“俗を通して、聖を見出す”
粗野で破天荒なマクマーフィの存在を通して
ネイティブアメリカンであるチーフが
真の自由を勝ちとるべく解き放たれる
つまりマクマーフィは
チーフ覚醒に至るための
いわば触媒の役割を果たしているという
これはまこと象徴的な構図で
そこにある種
宗教的な意味合いすら感じ取ることができましょうか
映画のラスト
チーフは廃人と化したマクマーフィの顔に枕を押しつけ
自らの手でマクマーフィの人生に終止符を打ち
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以前、マクマーフィが成し得なかった放水台を持ち上げ
窓に投げつけガラスを叩き割って病院を飛び出し
そして大地を力強く駆け抜けていくのです
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後のヒッピームーブメントに多大な影響を及ぼす
ケン・キージーによって提示された
崇高なまでの“巣立ち”を
フォアマンが象徴的に視覚化
う〜ん
こみ上げる感情を抑えるのが精一杯の
忘れがたいラストシーンです
というわけで
様々な観点や示唆に富むショッキングな内容
それ以上に濃密な
人間ドラマの力作
いやあ
何度観ても本当にすごい映画です
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