映画『ROMA/ローマ』
まだどこかで上映中です
『ゼロ・グラビティ』(2013)などで知られる名匠
アルフォンソ・キュアロンの
監督・脚本・共同製作・共同編集による
アメリカ、メキシコ合作の映画
『ROMA/ローマ』
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本作はNetflixによるネット配信の作品で
映画の定義の是非を問われたことでも話題になりましたね
(これに関してはまた次回)
以下、ネタバレ注意
タイトルのROMAは
メキシコシティ近郊のコロニア・ローマのことを指していて
本作はここ出身のキュアロン監督の
半自伝的な物語と言われています
1970年代初頭のメキシコシティ
とある中流家庭と
そこに仕える一人の家政婦を取り巻く
とりとめのない日常…
冒頭
屋内ガレージのタイルの上に水が繰り返し流れ続け…
映画は家政婦の清掃の様子を映した
オープニングの長回しから始まって
子供の世話や寝かしつけ
料理、家の掃除
手洗いでの洗濯
といった生活風景を淡々と
しかし情感豊かに描いていきます
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考え抜かれた構図による
陰影の濃いモノクロ画像で
丁寧に積み重ねられた本作は
日常の何気ないシーンに
まるで宝石のようなきらめきをもたらしています
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白人中流家庭と
そこで働くメキシカン・ネイティブの家政婦クレオ
平穏で楽しい家庭環境だったのだが
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クレオは
ふとしたきっかけで親しくなった男と関係を持ったことで
妊娠していることが判明
また妻ソフィアは
夫に愛人がいることを知って思い悩み
やがて別居を決意する…
映画は
いち家庭における
どこまでもパーソナルな題材を扱いながらも
政治的混迷を極めていた
70年代当時のメキシコの世相や
貧富の格差
人種間の差別意識が蔓延し
生活に不満を抱く民衆たちの沸々とした空気感を
ダイナミックな横移動の長回しを多用しながら
シンボリックに描出してみせます
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横移動しながら奥行きをも獲得した
神の視点のごとき独特のカメラワークによって
日常のパーソナルな風景が
たちまち壮大なパノラマに変換
まさに驚異の映像表現です
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ふと
監督の幼い頃の記憶の産物?
どこかノスタルジックな光景
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そして圧巻は
体制に不満を持つ学生や知識人によって
引き起こされた反政府デモと
政府側による暴動の鎮圧のシーン
身重のクレオが
お店の窓越しから目撃した惨状
蠢く人物たち
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大胆な横移動によって俯瞰しつつ
やがてその余波が店内に及ぶ様を
ワンショットで一気に捉えます
と
70年代当時のメキシコ社会を覆っていた
騒然としたムード
男たちが猛り
息巻いていた騒乱の時代
…における
家政婦クレオという存在
女性であり
マイノリティである彼女が辿る
受難
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メキシコ現代史の負を一身に背負うかのごとき
苦難の道のり
待ち受ける死産の悲劇と苦悩…
打ちひしがれるクレオですが
しかし終盤で
思わぬ展開を見せます
旅行先の海で
溺れた雇い主の子供を助けようと
泳げない身を顧みず
自ら荒波の中に入っていくクレオ
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(横移動で延々捉えた波の恐ろしさ…)
無事救出し
家族に感謝された彼女は
そこで初めて思いの内を吐露し
子供を失った哀しみを乗り越えるきっかけを得るのです
血の繋がりを越えたひとつの家族として
みんなで寄りかたまった光景は
祝福を表す三角形の構図を成していて
眩しく照らされた陽光とともに
そこには自ずと
宗教的な意味合いが付与されます
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家政婦クレオに対する
カメラを通した監督キュアロンのまなざしは
終始、温かい慈しみと深い愛情に溢れていて
彼女をどこか神に近い聖なる存在
と捉えているようにも見えます
社会的弱者
虐げられし者に
光を見出す
苦しんだ分だけ生きる力が与えられる
宗教的な要素も多分に含まれる
キュアロンの特異な視点です
ところでクレオを演じたのは
なんと演技未経験の
ヤリャッツァ・アパリシオ
小柄ながら
すべてを受容するような包容力と
どこまでも穏やかで優しい佇まいが印象的で
本当に素晴らしい名演です
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と
本作は
パーソナルでミニマムな題材という点では小津を
少年の頃の豊穣なる記憶となると
やはりフェリーニを彷彿させますが
最も近いなぁと確信したのが
台湾のエドワード・ヤン
“小さな物語の中に世界を見る”
『牯嶺街少年殺人事件』(1991)の
視点、スケール感、緻密なディテールを
思わず想起させられた次第です
というわけで
監督アルフォンソ・キュアロンによる
遠い記憶の中の
ある家族の小さな物語
いやあ
これはまぎれもない傑作です
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