映画『黒い神と白い悪魔』

1964年製作のブラジル映画
『黒い神と白い悪魔』
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監督・脚本・製作は
ブラジルの新しい映画=シネマ・ノーヴォの
若き先導者として一世を風靡するも
43歳で急逝した伝説の映画作家
グラウベル・ローシャ(1938-1981)
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ローシャは
映画の創作を通して
西洋列強による支配から
いかにブラジルが脱却しうるかを志向していた人で
彼の映画はしばしば
暴力と飢餓、混沌の中で
虐げられる民衆の姿を映し出し
革命の気運が醸成するブラジルの
社会的政治的背景を
フィルムに刻印してきました
本作『黒い神と白い悪魔』は
ローシャのこうした意図が
ストレートに反映した最初の作品で
第三世界の底知れぬエネルギーを
世界に知らしめた野心作です
…
荒れ果てた不毛の地
苦境にあえぐマヌエルとローサの夫婦
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黒人神父セバスチャンが
奇跡が起きると吹聴しては
歌って祈る信者たちを率いて路を征く
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ある日
理不尽な仕打ちに逆上したマヌエルは
地主を殺害するが
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すぐさま追手に老母を殺され
妻子を連れて
聖セバスチャンのいる山に逃げ込む
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神父セバスチャンは
圧政に苦しむ人々に
神への道を唱え
奴隷から脱却すべく
戦いへと身を投じることを呼びかけていく
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…が
彼に奇跡を見出し
どこまでも従おうとする夫マヌエルを
冷ややかに見つめる妻ローサは
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赤ん坊を信仰の犠牲にした神父を刺し殺し
一方、信者たちは
地主に雇われた凄腕の殺し屋アントニオによって
皆殺しにされる
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生き残ったマヌエルとローサは
コリスコ大尉率いる義賊集団と出会い
行動を共にするも
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コリスコ大尉の一隊も
アントニオによって
あえなく殺されてしまう
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そして
マヌエルとローサは
荒地を逃走する
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途中
ローサが転倒しても
マヌエルは手助けせず
彼女をほったらかし
ひたすら
どこまでも
走り続ける
…
俯瞰で捉えたブラジルの大地
多用される横移動のショット
クローズアップで捉えた
民衆たちの素の表情の
なんとまあ
味わい豊かなこと
どこからともなく聴こえてくる
盲目の唄い手による
フォークロアの唄声
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政府に雇われた
カンガセイロ(=盗賊)の殺し屋
アントニオ・ダス・モルテス
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勇猛な義賊コリスコ大尉
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と
しばしば
画面の先で
一体何が繰り広げられているのか
皆目見当がつかなかったりします
物語は錯綜としていて
善悪の基準は曖昧で
故に
登場人物への感情移入も
ままならず
フォークロアの乾いた唄が流れる中
ただ
ひたすらにもう
ブラジルの荒々しい国土
暴力の波に飲み込まれ
激しく傷つく民衆の姿が
ザラついたモノクロ映像で映し出されるのみ
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って
そうは言っても
しかし
映画には
力があります
熱があります
西洋的な論理と
相対するかのような
ある種の野蛮
第三世界における
60年代ブラジルの
政治的混沌を
文化的退廃を
ローシャは
どこまでもブラジル国内に根ざした
歴史、風土、伝承、題材による
いわば独自の文体で
鮮烈に表現してみせます
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正直、観ていて
何が何だかわかりませんが
とにかく
全編
野性的なパワーに
満ち満ちています
人々の飢餓感が
映像の端々に刻印された分
映画は
逆説的に
強烈な生気を充満させています
それは決して論理的ではなく
かといって感情的でもなく
生きるということに貪欲な
人間の本質的な姿
否
どっちかというと
動物的な本能に近いかもしれません
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愛とか
正義とか
道理とか
大義とか
そういった
ある種のセンチメンタリズムが
介在する余地は
本作にはありません
映画は
現代社会において
失われて久しい
根源的な力を
やけのやんぱち的な
火事場のクソ力的な
生き抜く力を
観る者に否応なく突きつけます
というわけで
『黒い神と白い悪魔』
鬼才ローシャによる
得体の知れない
底知れぬエネルギーを秘めた
稀に見る力作です
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おまけ
ローシャと彼の映画について
以前書いた記事です
◎伝説のブラジル映画→こちら
◎『アントニオ・ダス・モルテス』→こちら
◎『大地の時代』→こちら










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