映画『熱いトタン屋根の猫』

1958年のアメリカ映画
『熱いトタン屋根の猫』
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テネシー・ウィリアムズの同名の戯曲の映画化です
監督は名匠リチャード・ブルックス(1912-1992)
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負の感情が渦巻く濃密な室内劇です
…
アメリカ南部ミシシッピー州
大農園の当主ビッグ・ダディが
病院での検査を終えて帰宅した
当主は癌で余命わずかと診断されていたが
本人はそのことを知らないでいた
莫大な遺産を狙う長男一家が
あからさまな態度を示す一方で
次男ブリックは遺産に興味を示さず
妻マギーとも冷え切った関係が続いていた
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しかしビッグ・ダディは
長男一家より次男夫婦の方を気に入っていた
ダディは何かとブリックを気にかけるが
親子の間には
見えない大きな溝が横たわっていた…
と
冒頭
酔って足を骨折してしまい
以来、部屋でパジャマ姿のまま
松葉杖と酒が手放せない
ポール・ニューマン演じる次男ブリックの
この不可解なまでに
暗く陰鬱で内に閉じ籠る様
エリザベス・テイラー演じる美しい妻に対し
終始不機嫌な態度を示し
妻からの夜の誘いも頑なに固辞
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って
本作のタイトルとなっている
“熱いトタン屋根の猫”とは
いわば
久しく夫婦関係がない
欲求不満の妻マギーのことを指しています
と
二人の会話の中で
本質的な原因が垣間見えてきます
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自殺した親友スキッパーへの思い
妻に対する恨みを吐露するブリックに
ほのかにチラつく
同性愛の影
劇中、名言は避けているものの
ビッグ・ダディからの追及も含めて
観ていて
如実に感じられる演出となっています
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まあ製作当時の時代背景を考えても
あからさまな表現は控えたのではないでしょうか
もっともWikipediaによれば
原作者のテネシー・ウィリアムズは
この脚色に大変失望したそうですが…
とまあ
それにしても本作は
全編これ舞台劇のようなセリフの応酬で
限定された部屋内で
愛憎巡るドラマが
延々繰り広げられるのですが
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目を見張るは
古き良きアメリカの理想像を体現しようとする
旧世代の価値観と
従来の常識や体裁に対して息苦しさを感じる
いわばカウンターカルチャーとしての
新世代の価値観との
この如何ともしがたい衝突です
特には
ブリックに内在するタブーである
同性愛の意識が
彼を無言のうちに縛りつけ
ゆえに
父親や妻と
向き合うことができない
何より
嘘で塗り固めてきた己自身を
許せないでいる…
映画は
苦しみに悶えるブリックを通して
また
家族の面々の打算的な本音を通して
50年代アメリカ中上流家庭の
うわべの華やかさと裏腹の
隠された欺瞞を露呈してみせます
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ふぅ
つくづく
剥き出しの感情相見える
役者たちのメソッド演技と
テネシー・ウィリアムズの戯曲との
この相性の良さ(!)
もう抜群ですね
60年代後半から勃興する
アメリカン・ニューシネマに見る
ドキュメンタリータッチの渇いた映像が隆盛となる前の
過剰な感情表現をよしとする演出スタイルに
ウィリアムズの戯曲は絶妙にマッチしています
まあ時代を感じさせますね
と
夫からの愛を渇望しながら
美しく毅然とした妻を演じた
エリザベス・テイラーもいいですが
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なんてったって
ポール・ニューマンが最高ですね
いくらダメさ加減を見せつけても
いい男ぶりが際立ってしまう
本作はとりわけ
屈折した心理をともなう難しい役どころで
男としての不能を象徴する松葉杖を
手離さない弱さを見せつつ
そんな己を打破しようともがく姿を
等身大でまこと的確に演じています
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終始抑制しながらも
時折暴発する感情表現を
持ち味である安定感を伴いながら熱演
…って
よくよく
デビュー当時から比較対象にされましたが
やはり同じくウィリアムズの戯曲を映画化した
『欲望という名の電車』(1951)の
マーロン・ブランドの
野獣のような荒々しい演技とは
実際のところ好対照ですね
ふと本作は
どっちかというと
『エデンの東』(1955)の
ジェームズ・ディーンに近いでしょうかね
とまあ
そんなわけで
『熱いトタン屋根の猫』
保守的な時代において
先駆けたテーマを内包した
巧みな心理描写の光る人間ドラマの力作
いやあ
今更ながら
これは必見です
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