ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

う〜ん

つくづく

この世には

言葉で説明できない何かがある

のかな⁈

ふと想起

20世紀を代表するウィーンの哲学者

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)

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彼の前期の思想を

体系的に網羅した哲学書

『論理哲学論考』(1918)

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数字をふってシンプルに並べられた

難解極まりない哲学的命題の数々

以下

気になった箇所を

無造作に抜粋

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1 世界は成立していることがらの総体である。

11世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

33命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈絡の中でのみ、指示対象をもつ。

4001命題の総体が言語である。

4023…命題は論理的足場を頼りに世界を構築する。

4114哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界づけねばならない。

哲学は思考可能なものを通して内側から思考不可能なものを限界づけねばならない。

56私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

561論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。

5633世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるか。

君は、これは目と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。

そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。

64321事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない。

654…私の諸命題を葬りさること。そのとき世界は正しく見るだろう。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

いやあ

ハハハ

一体なんのことやらですが

本書のテーマは

言語によって世界を捉えようとする

その壮大な試みと

人間の思考の限界についてです

ウィトゲンシュタインいわく

世界はものでなく事実の総体であり

言語は命題の総体である

さらに世界と言語は一対で紐付けられる関係にある、と

そして

目に見えない

言葉で表すことのできない

人知の及ばない

いわば形而上学的な世界は

語るべき対象ではなく

沈黙せねばならない」

と最後に締めくくっています

おや

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水田で戯れる

一羽のしらさぎが

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おもむろに

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羽根を広げ

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飛び去っていく

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ふと

その日常的で何気ない

しかし美しい光景をつらつら眺めていて

そこにしらさぎがいる

ことだけが世界のすべてであると

つい思いがちですが

例えば

そこに生息する他の虫たちや草花の存在

あるいは

あくまでも

しらさぎがいたのであって

他の野鳥はいなかった

ということにもなる

つまり

その美しい光景は

絶対では決してない

もっと言えば

世界を定義づけることにはならない

また

その光景を

ありとあらゆる技巧を駆使して

完璧に言葉で言い表しうるかというと

果たして

って

できないことはないかな

あくまで論理的に

説明可能な話ではありますかね

というわけで

言葉の可能性と限界を

完璧なロジックで突き詰めた本書

ですが

う〜ん

それでもやはり

どこまでも自然な

一羽のしらさぎの飛び立つ姿に

言葉で言い表す以上の

豊かさと美しさ

その確かな強度

何よりそこに

素朴な感動を覚える僕がいるのですが

しかし

ウィトゲンシュタインに言わせれば

そうした目に見えないものは

語る対象ではない

ということになるわけで

とまあ

そんなこんなで

命題はさらに深まり

ふぅ

今宵の夜も更けていく…

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