映画『寝ても覚めても』
未成熟ながら
とてつもない可能性を秘めた作品
現在もまだどこかで上映中です
芥川賞を受賞した柴崎友香の同名小説を
俊英、濱口竜介監督が
唐田えりか、東出昌大主演で映画化した
『寝ても覚めても』
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公式サイトは→こちら
以下、ストーリーをサイトより転載
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大阪で暮らす21歳の朝子は、運命的に出会った麦(ばく)とたちまち恋に落ちるも、ある日、麦は朝子の前から忽然と姿を消す
2年後、大阪から東京に引っ越した朝子は、麦と瓜二つの亮平と出会う
麦のことを忘れることができない朝子は亮平を避けようとするが、そんな朝子に亮平は好意を抱く
そして、朝子も戸惑いながらも次第に亮平に惹かれていく
…
つかみどころのないミステリアスな魅力を持った
およそ生活感のない
ある種“危険な男”の麦
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一方、等身大でどんなときでも優しく包みこんでくれる
安心感に満ちた
いわば“いいひと”の亮平
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東出昌大が
麦と亮平という対照的な2役を好演しています
と
亮平との穏やかで満ち足りた日々の中で
朝子は麦を
たしかに吹っ切ったはずだった
が…
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奇抜なストーリー展開や
ちょっと漫画的なシチュエーション設定
どこか不自然さがつきまとうセリフ回しなど
正直いろいろと気になる点はあるのですが
ついつい物語に引き込まれてしまう僕がいます
何より
ドラマであるというのはわかっているのですが
時折ドキュメンタリーを観ているようなリアルが
垣間見える瞬間がある
おそらくそれは錯覚ではないでしょう
役者たちが実際に役を生きている
役者たちの演技も
決してうまいとは思いませんが
それは彼らの人間としての成熟の度合いの問題で
つまりは撮影時現在の
役者たち一人一人の力量
彼らの知識や経験などからくるパーソナリティが
未熟さや不自然さも含めて
まんまフィルムに刻印されているかのようなのです
これがたまらなく魅力的というか
演技そのものを忘れたかのような密度の濃い
格別な空気感を形成していて
なんとも惹きつけられるのです
これは濱口監督が
おそらくは地道で粘り強いスタンスで
役者たちと築き上げた信頼関係の産物で
長いプロセスを通して
一人一人のポテンシャルが
引き出された結果なのかなと思います
さらに
濱口監督は確かインタビューで
「ドキュメンタリーとドラマに明確な違いはない」
というようなことを述べています
自身、東日本大震災を機に
被災地でドキュメンタリーを数本撮った経験もあり
また本作の中の重要なモチーフとなる
3.11当日の都内での混乱ぶりや
その後の被災地での人々との交流シーンなどは
ほぼドキュメンタリーで
なおさらその言葉に納得させられます
まるでフランスのヌーヴェルヴァーグや
アメリカのジョン・カサヴェテスの映画のような
まさにドキュメンタリーとドラマの境界線が曖昧な世界が
本作の画面内はおろか
フレームの枠外に至るまで
どこまでも拡がっているようです
とまあ映画としては
ドストエフスキーの原作を
イタリアのヴィスコンティが監督した『白夜』(1957)を思いっきり想起させる
つまりこれは“理想と現実”
もっと言えば“夢うつつ”
の間で揺れ動く
女性心理を描いた物語で
タイトルの“寝ても覚めても”の由来は
おそらくここにあるのでしょうが
主人公の朝子を演じた唐田えりかの
繊細で地に足ついたひたむきな佇まいが
大胆で突発的な行動(!)すらも
決して単なるエキセントリックですまさない
確かな共感、説得力を
観る者にもたらしています
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つくづく複雑な女性心理
これだから女はわからない…
しっかし稲妻に打たれたような
心奪われる体験を一度してしまうと
人はやはり
夢に生きることをいとわなくなる
それは理性や損得では決して計り得ない
感情的な衝動であり
それこそが人間の人間たる所以
人はそう単純ではないということですよね
そしてそうした人間の奥深くに眠る本音を
顕在化させた上で
さあどう生きていくか?
映画は観る者に静かに問いかけます
さらには大小問わず
随所に見られる様々な対比構造
大震災など
人間の力ではどうすることもできない運命論的な視点
目に見えない力の存在
映画は重層的で示唆に富んだ
類まれなスケールと可能性を有し
いやあ
なんとも不思議な魅力があって
癖になるといいますか
猛烈にもう一度観たいという気にさせられます
もしかしたら
こういうのを傑作と呼ぶのかもしれませんね
というわけで
『寝ても覚めても』
是非とも必見です
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