映画『シークレット・サンシャイン』

2007年の韓国映画
『シークレット・サンシャイン』
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監督・脚本・さらに製作を手がけるのは
韓国の名匠
イ・チャンドン(1954-)
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寡作ながら
どれもいずれ劣らぬ傑作揃いで
もはや巨匠の域に達していますね
中でも本作は
彼の類稀な作家性が如実に表れた
隠れた傑作です
…
夫を交通事故で亡くし
幼いひとり息子ジュンとともに
ソウルから亡夫の故郷である
密陽(ミリャン)に引っ越してきたシネ
ここに来る道中
車が故障し
修理屋の社長ジョンチャンに助けてもらう
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以降、ジョンチャンは
事あるごとに
この母子の世話を焼こうとするが
彼女は彼に見向きもしない
程なくして
シネは街でピアノ教室を開き
新生活を順調に送っていた
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…が
その矢先
最愛のひとり息子ジュンが
誘拐され殺害されるという
最悪の不幸に見舞われる
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あまりの突然の出来事に
現実を受け入れられず
放心状態に陥っていたシネは
韓国系キリスト教への入信を薦められ
そこの教会で思わず
我を忘れたように慟哭に打ち震える
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そうして神への信仰に救いを見出し
平静を取り戻しつつあったが…
そんなある日
シネは息子を殺害した犯人に面会して
彼を赦したいと考えるようになる
周囲の心配をよそに
刑務所に服役する犯人と面会
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しかし男は予想に反し
終始落ち着いた表情でシネと向き合い
彼女に淡々と語る
刑務所で入信し、神が自分の罪を赦した、と…
息子を殺した男は自分が赦す前に
神によって赦され
刑務所で穏やかな日々を暮らしている…
そのことに衝撃を覚え
怒りとも悲しみともつかないまま
混乱にさいなまれ
駐車場で倒れこむシネ
そして彼女は
神に不信感を抱くようになる
それまでの信仰心は
もろくも反転
神を挑発するかのように
上を見上げては
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常軌を逸した行動を重ねていき
シネの心は壊れていく…
ふぅ
なんとまあ
凄まじい展開でしょうか
彼女にふりかかる理不尽なまでの災難
その後の彼女がとる
神に見せつけるかのごとき異様な言動
自分を傷つけ
他人を傷つけ
う〜ん
観ていて
これはしんどい…
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って
物語の激しさ
展開のスピード感に比して
映画は
過度な抑揚を排し
淡々と静かに進行していきます
時折ドキュメンタリーを観ているような
リアルな瞬間が垣間見えたりします
と
本作の原題は
物語の舞台となる地である
その名もズバリ
『密陽』
劇中でも
この地名について語るシーンがありますが
読んで字の通り
“秘密の陽差し”
“密かに照らす光”
となります
つくづく
本作は
多分に宗教的な話
この
ひたすらに
主人公が絶望の淵を彷徨う物語
ふと
彼女にふりかかる受難を
どこかで密かに照らす存在
それは何か?
つまりは
一体誰か?
これが本作のテーマであるように思います
悲しみに打ちひしがれ
神に絶望し
精神を病むに至るシネを
陰日向で見守り支える存在
そう
ジョンチャンこそが
本作の影の主人公といえましょうか
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彼はシネに好意を抱き
彼女に近づこうと
教会へも入信する軽薄さ
下心丸見えの
俗の塊のような男です
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…がしかし
なんですよ
常に
いついかなる時も
変わらず
側に寄り添うスタンス
彼がいるから
シネは救われる
生きることができる
イ監督は
人を愛するということの本質を
ジョンチャンという存在の中に
見出すのです
庭に差し込む日向を映し出す
さりげないラストシーン
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とまあ
それにしても
主演のチョン・ドヨンの
この鬼気迫る怪演ぶり
まるで何かが憑依したような
様々な表情を見せてくれて
もう圧巻の一語です
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そして
ソン・ガンホが素晴らしいですね
地方の訛りで
早口にまくし立てる様子など
田舎の社長然とした佇まいが絶妙で
よくよく
イ・チャンドンの映画に特徴的な
市井の人々への愛着
溢れる人間味を
まさにソン・ガンホが体現しています
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地方社会の閉鎖性
リアルな世相を映し出す冷徹な目
苦悩する人々への優しい眼差し
あらためて
イ・チャンドンの
スケールの大きな視点
たしかな知性と良心
卓越した演出が光りますね
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というわけで
『シークレット・サンシャイン』
いやあ
稀に見る純度
ひとりの女性が辿る
苦難の道のりと
再生への道程
つくづく
なんてすごい映画でしょうか
もう
打ちのめされること必至です
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おまけ
以前、本ブログにて
イ・チャンドンの『バーニング』について
書いた記事は→こちら
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