ドストエフスキー『罪と罰』
すっかり小難しくなってしまった
前回の続きを
懲りずに少々…
今までも幾度となく
物事は常に二極
両面あって
人間が人間であるかぎりにおいて
どちらかに一方的に寄ることはない
というようなことを述べてきましたが
それを最も顕著にあらわす例えが
善と悪
という二極ではないかと思います
あらためて
人間は善悪の両面を持っていて
人間である限りは
善悪どちらかに偏る生き方は
決してできない
という
まあこれはあくまで仮説です
悪いことをすればするほど
人間に本来備わっている
良心の呵責が働き
悪い方に寄った分
反対の方に逆ブレする、と
う~ん
これはなんとなく
僕なんかも思い当たるふしがありますね
例えば
学生時代
遅刻を繰り返したり
授業をサボってばかりいると
次第に不安になってくる感覚
あるいは
堂々と公休をとっているにもかかわらず
あまり何日も休んでいると
なんとなく焦りを覚えてきて
いま会社はどうなっているんだろうとか
みんなは自分をどう思っているんだろうとか
妙に心細くなって
どこか被害妄想チックになったりします…
(僕だけかな…)
人に何らか不義理を働くようなことをやって
自分がいい思いをしたとしても
仮にそれが続くと
不義理を働いたという
良心の呵責が
やがて精神的な代償となって
自分を苦しめることになるのです
と
ここで
上記のテーマについて描かれた
あまりにも有名な小説をご紹介
ご存知
ロシアの文豪
フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の
↓↓↓
『罪と罰』です
↓↓↓
(こちらは新潮文庫)
…
ロシアの貧しい青年ラスコーリニコフが
質屋のおばあちゃんとその妹を
斧で殺害し
現金をせしめた
まさにその瞬間から
彼は
自分の目に映る人がことごとく
警察だと思い込むようになり
猜疑心に怯え
やがて
自らが犯した罪の意識に
苛まれるようになります
そうした不安と葛藤の中で
様々な経緯を経て
心身共に憔悴しきったラスコーリニコフは
自ら警察に出頭し
シベリアで刑期を過ごし
そこで信仰に目覚める…
と
まあ大体
そんなお話だったと思いますが
いやあ
この本はだいぶ昔に読みましたが
衝撃を受けたのを覚えています…
ラスコーリニコフが
斧で老姉妹を殺害するにいたる経緯や
また殺人を犯した後の
心理的な描写の緻密さ
青年の心の動揺が
余すことなく記述されていて
ドキドキしましたね…
若者特有の
繊細さ
自意識過剰ぶりが
当時の自分と
オーバーラップしていたのでしょうか…
いずれにしましても
この弱さこそが人間なんだと思います
人間は本質的に
罪を犯してもなお
耐えられるだけの精神力は
決して持ち合わせていない、と
そして
弱いからこそ
強くなろうと努力するのです
そこに成長の余地があるのです
タイトルとなっている罪と罰の
“罰”とは
ここでは決して
刑務所で刑期を過ごすことを指しているわけではなく
罪を犯したことによって
他でもない
自分自身が被る
精神的苦悩を指しています
自分自身に対する裏切り以上の罰はない、と
そういう意味では
このドストエフスキーという人は
誰もが本来持っている良心を
どこまでも信じる
ヒューマニストだったんでしょうね…
ところで
この罪と罰という主題は
それこそ
あらゆるジャンルで表現されているのですが
映画なんかでも
この主題を
モロストレートに描いた作品では
クリスチャン・ベールが
役作りのため衝撃的なまでに痩せてみせた
『マシニスト』(2004)
なんてのもありましたね
↓↓↓
(やりすぎだろ~)
いやはや…
というわけで
この話は
まだ続きます…
こんにちはブイ V(=^‥^=)vブログ拝見しましたo(*^▽^*)o更新を楽しみにしています♪
>かねしょうさん
わざわざコメントありがとうございます!