ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』

ウィーンが生んだ20世紀最大の哲学者

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)

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ウィトゲンシュタインといえば

前期の『論理哲学論考』(1921)から

後期の『哲学探究』(19461951)へと

自身大きく思想的転換を遂げ

よってその哲学体系も

前期と後期に分けられることで

知られています

そして前期から後期へと至る

長いブランクの間

彼は山村の小中学校教師をしながら

いわば隠遁生活を送るのですが

後期の『哲学探究』を着手し始めるまでの

主には19301937年の間

彼はひそかに日記を書き綴っていました

そうして彼の死後42年経って

発見されたその日記の中には

思想的転換を遂げる

決定的に重大な宗教体験が

赤裸々に記されていたのです

ということで

本書がこれ

↓↓↓

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そもそもこの日記は

彼の主著『論理哲学論考』が

実は彼にとっての原罪であり

それを克服するために

書かれたものだと言います

一体どういうことかと言いますと

『論考』は

言語の論理的限界を突き詰めた書で

最後の一行に

「語りえぬものについては沈黙せねらばならない」

とあるように

これはいわば自らに課した沈黙律なんですね

それを守るかのように

彼は『論考』執筆後

哲学から離れ

隠遁生活を送るわけですが

ふと

それが彼の内面の欲求からくるものなのか⁈

それとも彼がそうした行為を行う

自己の正しさを

他人に知られたくて行ったのか⁈

実のところ定かでなく

それは誰にもわからない

って

これは他でもない

ウィトゲンシュタイン本人のみが

どっちなのかわかっていた

そう

彼は自身に内在する偽善と虚栄心

それが生み出す道徳的優越感を

人知れず自覚し

やがて悩み始めるのです

これが本日記の目的となっています

そして日記を通して

自己の内面と向き合い

その奥底に眠る罪の意識

いわば自己欺瞞のベールを

一枚一枚剥がしていく

つまりは自己解剖を試みるのです

う~ん

読んでいて

つくづく痛感するところですが

これはなかなかにしんどいこと

ウィトゲンシュタインの

内的格闘の記録であると同時に

これは読む側にとっても

自分の中に眠る真実

蓋をして知らんぷりを決め込んで久しい

己の本音と

否が応にも向き合うことになるのです

ウィトゲンシュタインが

自問自答を繰り返しながら

徐々に絞り出していく罪の告知において

触媒的な役割を担うのが

本日記で綴られるところの

8つの宗教的体験で

多くが夢とともに語られます

この8つの宗教的体験

その精神的な葛藤を通して

彼は神の救済に触れ

やがて深い信仰心を獲得するに至るのです

そうして『論考』を解体し

『探究』という

新たなテキストの成立を可能にする

精神的な状態を

自ら整えていったのです

つまりは本書の末文を引用するなら

「理想と現実のどちらもあるがままに見

それによって自己の低さを認識するとともに

そうしたあるがままの自己を

受け入れてゆくということ

それは理想により現実を欺く態度から

理想を尊重しながらも

現実をありのままに受け入れる

態度への変化でした

いやあ

この言語哲学の巨人による

宗教体験に基づく思想的変遷

その生々しいまでの魂の記録

う〜ん

あらためて

信仰心とは何か⁈

哲学とは何か⁈

その命題を突きつけられ

考えさせられる一冊です

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