映画『テオレマ』
1968年製作のイタリア映画
『テオレマ』
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監督・脚本は
詩人、作家、映画監督など様々なジャンルを横断し、その名を轟かすも
やがて凄惨な死を遂げるに至る
イタリアの鬼才
ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)
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本作は
カトリックの国イタリアにおいては
多分にスキャンダラスな描写に満ち満ちた問題作でありながら
この稀代のクリエイターのまぎれもない代表作に数えられる1本です
と
ただいまパゾリーニ生誕100年を記念して
日本でリバイバル上映中です
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北イタリアの大都市、ミラノ郊外に住む
工場経営者パオロの裕福な家庭
ある日、ここの邸宅で開かれたパーティーに
ひとりの青年が唐突に現れる
男は
なぜかそのまま
家に居つくようになる
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青年は何をするわけでもないのだが
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いつのまにか家族全員が
すっかり彼の虜となり
やがて一人一人が彼と肉体関係を結び
自ずと精神的な依存状態へと陥る
が
しかし男は
程なくして立ち去ってしまう
すると残された家族は
各々が奇妙な行動を取り始め
そうして家庭は崩壊の一途を辿る…
う〜ん
不可解です
つくづく
青年とは一体何者で
何の目的でやってきたのか?
一切明らかにされず
ただ彼と性的関係を持った一家全員が
それぞれ狂気の淵をさまよい果てます
息子ピエトロは
芸術に目覚め、学業を放棄し
抽象絵画の創作に没頭…
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これがホトホトしょうもない
フランシス・ベーコンの絵に触発され
ポロックのアクション・ペインティングか
挙句の果てには
ウォーホルよろしく、画布に向かって放尿する…
娘オデッタは
青年に純潔を捧げるも
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彼が去った途端、絶望して硬直化
精神病院へと運ばれる…
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妻のルチアは
教養に溢れた貞淑な母親でありながら
突如、欲望を抑えることができなくなり
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若い男に次々と身を任せ
やがて疲れ果て病んでいく…
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そして工場経営者である夫パオロは
会社の全資産を労働者に譲り渡し
駅で全裸になって、そのまま荒野を彷徨い続ける…
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あらためて
青年とは誰なのでしょうか?
性差を超えた
神の象徴なのでしょうか?
あるいは
悪魔の化身なのでしょうか?
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この映画はブルジョワ階級に対する
強烈なアンチテーゼなのですが
そんな中でただ一人
メイドのエミリアだけは
彼と交わることによって
逆に聖なる存在へと昇華します
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故郷の田舎に戻った彼女は
子供の病気を治したり
空中に浮遊し
おもむろに奇跡を体現します
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驚愕のシーン(!)
そうして神の啓示を受け
自ら土中に入り、涙で泉を創り出し
文字通り、聖女と化すのです
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素朴で貧しい存在であるが故に起こる奇跡
まさに
マルキズムと宗教心が奇妙に混在する
パゾリーニの特異な世界観が
ここに結実しています
本作は
ドラマ的な高揚を排し
どこまでもリアルな風情をたたえながら
終始淡々と進行していきますが
う〜ん
しかしこの全編を覆う
張り詰めた空気感
どこか観念論に支配されたような
一種異様なムード
そして漂う聖性…
つくづく
謎の来訪者を演じたテレンス・スタンプが出色です
優しく穏やかな笑みをたたえた
その異質な存在感
美しいブルーアイズの磁力に
つい惹き込まれてしまいますね
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また脇を固める役者陣もすごい
夫のマッシモ・ジロッティの威厳
妻のシルヴァーナ・マンガーノの妖艶な魅力
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娘のアンヌ・ヴィアゼムスキーのピュアな佇まい
メイドのラウラ・ベッティの真摯なあり様…
あらためて
テオレマ(=Teorema)とは
直訳すると「定理」という意味で
いわば“神の摂理”といったところでしょうか
よくよく
現代社会を生きる人々の
とりわけブルジョワジーが本質的に抱く精神の荒廃
そうした内実が
この謎の青年と接触することによって
あからさまになる
つまり家族の面々は
青年によって魂を解放され
真の自分を取り戻したかのようです
まさに覚醒ですね
だが各々の結末は
皆一様に幸福なものではなく
むしろ苦悩が全面に表出した形となるのですが…
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いやあ
つくづく
なんてすごい映画でしょうか
この聖と俗の振り幅
というわけで
鬼才パゾリーニが創出した衝撃の寓話
恐るべき傑作です
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