映画『ダークナイト』

2008年のアメリカ映画
『ダークナイト』
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監督・脚本は
世界にその名を轟かす若き鬼才
クリストファー・ノーラン(1970-)
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不評だった前作の巻き返しを図るべく
シリーズ再興の重責を任されたノーランは
従来のアメコミを踏襲した
ゴシック・ファンタジーから
一転
ハードでシリアスなリアリズム路線へと
大きく舵を切ります
そうして完成した
『バットマン ビギンズ』(2005)で
シリーズの低迷を打破する
ハードなアクションとリアルな描写が
公開当時
大きく話題を呼びましたが
う〜ん
これはまだ
ほんの序の口に過ぎませんでしたね
ノーランは
次作となる本作『ダークナイト』で
文字通り
度肝を抜く衝撃を
観る者にもたらします
って
初めて劇場で観た時は
ちょっとビックリしましたね
たかがアメコミ
されどアメコミ
つくづく
エンタメど真ん中のハリウッド映画が
実際ここまでやるのか…
アメコミの表現を突き詰め
どこまでも
リアリズムに徹したその姿勢に
感動すら覚え
それまでの僕の浅はかな
アメコミ映画に対する先入観を
本作は
かくも戦慄すべき内容と
ショッキングな映像で
ひっくり返してくれましたね
…
ゴッサム・シティで
犯罪撲滅に励むバットマンの前に
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混沌をもたらす犯罪者ジョーカーが
唐突に姿を現す
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ジョーカーは
バットマン殺害を公言し
「バットマンを名乗り出なければ市民を殺す」
と挑発的なパフォーマンスを繰り返し
街全体を人質に取る形で対決を仕掛ける
様々なプロセスを経て
最終的にバットマンは
ジョーカーと直接対峙し
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肉体的には打ち勝って
彼を逮捕することに成功するが
ジョーカーの本当の狙いは
“勝つこと”ではなく
人々の中に宿る
正義感や善意を破壊することにあり
実際、正義の象徴だった検事
ハービー・デントは
ジョーカーの思惑にはまり
ある悲劇をきっかけに闇堕ちしてしまう
世の中は更なる混沌を深め
バットマンは街の希望を守るため
自らが罪を背負い
“追われる存在”になる道を選ぶ…
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ふぅ
何でしょうか
この敗北感は…
あの道化が
姿を現すまで
世界は秩序を保っていた
…はず
社会騒乱…
観る者は
大衆が
騒然と荒れ狂う様を
世の中の
仕組み
ルールが
あっけなく崩れ去る様を
刮目させられることになります
あらためて
本作最大の魅力は
主役のバットマンを完全に喰ってしまった
強烈無比な悪役
ヒース・レジャー扮する
ジョーカーの存在にこれ尽きましょうか
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顔面に道化のペイントを施し
狂気に満ちた言動で
人々の奥底に眠る恐怖心を
巧みに操り
そうして大衆を扇動し
社会を混乱に陥れる…
ふと
安定感の中にあっての
不安定さが生むパワー
際立つ存在感
つくづく
破壊は
秩序を
遥かに上回ります
バットマン:秩序
に対する
ジョーカー:破壊
の構図
つまりは
財力、知力、体力、容姿
超人的な力etc
すべてを兼ね備えた者
=バットマンの存在
…ゆえに
相対的に
ジョーカーが生み出されたということ
ゴッサムシティーというこの街で
神の如き絶対的な力を誇る
完璧なる存在そのものへの
これまぎれもない
反発…
奇しくも
ジョーカーという
不穏で
不気味な
いわば絶対悪の男にこそ
むしろ人々は
自己を投影し
熱狂したのです
よくよく
奇怪なジョーカーは
人々にとって
まさにうってつけの存在
社会が求めた産物なのです
そう考えると
本作における
バットマンとジョーカーに見る
正義と悪という二項対立は
ベクトルこそ違えど
その絶対性という点で
共通していて
2人はある意味
コインの表と裏
対をなす関係になります
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と
ここまではアメコミ的な
捉え方になろうかと思いますが
本作は
キャラクターに
よりリアルで人間的な命を吹き込んでいきます
バットマンである
ブルース・ウェインは
すべてを兼ね備えているようで
その実
スーパーパワーなど持ち合わせていない
あくまで普通の人間なわけで
見えない所で
怪我に苦しみ
疲労を訴え
度々己の弱さに直面するという
当たり前の姿です
クリスチャン・ベイルが
スーパーヒーローの苦悩
陰の部分を等身大で演じていますね
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さらに
ここが面白いのですが
本作は決して
バットマン:正義vsジョーカー:悪
といった
単純な善悪二元論では括れない
多様な価値観の時代性を内包しているという点です
バットマンは
闇の存在として
社会の敵と戦うのですが
人々の前に大っぴらに姿を現すことができない
そんなある種
本質的な影を引きずっています
よくよく
法の力を超えた手段で
悪と戦うバットマンの行為は
果たして正しいのか?
正義とは一体何なのか?
ブルース・ウェインは
自身のアイデンティティに
絶えず苦悩・葛藤しながら
バットマンとしての役割を全うし続けます
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しかし一方で
そんな彼の前に
悩みもへったくれもない自由奔放な悪の権化
ジョーカーが出現し
その明晰な頭脳と
カリスマ的な言動で
人々の中に根づく
スーパーヒーローの淡い幻想を
粉々に砕いてみせるのです
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また
闇堕ちしたもう一人の悪
デント(=トゥーフェイス)の存在が
本作でひときわ異彩を放ち
善悪の構図にバリエーションをもたらし
物語にたしかな深みを宿しています
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このようにアメコミらしからぬ(⁈)
哲学的な問いを突きつけながら
映画は
決して晴れることのない闇夜を
妖しく照らし出すのです
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って
しっかし
本作に見る
デカダンス…
破壊と混沌のビジョン
およそ収束不能の
虚無的な世界観
そんな
どこかカタストロフ的なムードが
製作当時
2008年頃の現実世界に
漂っていたのでしょうか
たとえば
本作公開直後に起きた
リーマンショックによる社会不安が
一気に蔓延した様の
これ反映でしょうか
本作の映像を目の当たりにすると
自ずとそうした感慨を抱きます
さらにはノーランの
どこまでもリアルを追求した
その迫真の映像の中にあっての
このアメコミ的な人物たちの
キャラ造形の妙
ジョーカーを筆頭に
生々しくも奇怪な相貌が
象徴的で
極端で
ゆえに
漫画チックで
でもそれが
リアルな世界の中で表現されることの
このユニークさ
ショッキングな度合い…
それはそうと
何より
本作がもたらした副産物は
あまりに深刻でしたね
ジョーカーを演じたことによる
ヒース・レジャーが払った代償は
取り返しのつかないものとなりました
ヒースは役柄から
永遠に戻ってこれなくなってしまいました
つくづく
役者はここまでやらなくてはならないのか…
本当に悔やまれる結末となりました
と
本作の後
三作目となる
『ダークナイト ライジング』(2012)をもって
ノーランによる
『ダークナイト・トリロジー』(3部作)は
完結します
そして
世界はさらなる混沌の只中へと…
というわけで
いやあ
まあ
三部作のうち
二本目の本作が
完成度、スケール、キャラ造形etc
どれをとっても
ズバ抜けています
もう圧倒的に尖っていますね
そうそう
本作で登場する
バットモービルの前輪だけ残して
分離変形するオートバイ
これがもうカッコいいの何の…
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バットマンとジョーカーの
カーチェイスのこの
圧倒的な迫力(!)
ノーランの本物思考のこだわりを
存分に堪能することができますね
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つくづく
リアルでスタイリッシュで壮大で
なんとまあ
魅力的な世界観でしょうか
というわけで
『ダークナイト』
アメコミの枠を
確信犯的に大きく逸脱した
鬼才クリストファー・ノーランの
渾身の力作
いやあ
これは必見
今更ながら
映画史に名を残す傑作です










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