自由で開かれた映画

つくづく

映画を観るという行為には

どこか受動的なニュアンスが立ち込めますね

それはなぜかといいますと

作り手が作品を通して伝えたいメッセージは

これ

というふうに明確に決まっているからです

つまりは一方向のベクトルしか向いていない

基本、ひとつの価値観以外は閉ざされているということ

なので作り手が伝えたい価値観に

観る者が合わせなければならない

ついていかなければならない

なので自ずと受動的になるのかなと思います

そうはいいましても

実はこれは多分に心地よい感覚でして

これに味をしめてしまうと人は考えることをやめて

目の前に映し出される映像をただ黙って何も考えず

観て楽しむことに終始してしまいます

そうして

ああ、面白かった、つまんなかった

と漏らしては

少し経つと内容も何もすっかり忘れてしまうのです

まあどこまでも

娯楽として、ストレス発散として

楽な映画を観ることそれ自体が

いけないわけでは決してありませんが

そうした消費一辺倒の受動的な見方ばかりだと

どこかで飽きがこないかなと思わずにはいられませんね

あらためて映画の中には

能動的に観る映画も少なくありません

上述したように作り手にとっては

自分の考えを主張したいわけですから

一方向、一価値観を明確に打ち出すのが常ですが

全く真逆のアプローチ

様々な視点、見方を可能たらしめるような

それでいて作り手の主張、メッセージ、価値観

それらをひっくるめたところの思想が

明確に刻印された

そんな限りなく開かれた映画

いわば観る人それぞれが好きなように解釈できる

真に自由な映画も

中にはあります

僕がすぐにパッと思い当たるものとしては

例えばフェリーニが

欲望渦巻くイタリアと

そこに生きる現代人の精神の退廃を壮大に描ききった

『甘い生活』(1960)

↓↓↓

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自らを投影した映画監督の内面の混乱と孤独を

自身の記憶や願望などを交えて

イマジネーション豊かに映し出した

8 1/2(1963)

↓↓↓

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他にも

『アマルコルド』『ローマ』『サテリコン』などなど

いやあ

僕はストーリーにとらわれない

能動的で自由な映画の見方を

フェリーニから学びましたね

まあフェリーニの映画のタッチや世界観が

とにかく好きという点では

ある意味、受動的かもしれませんが

他にも

『情事』(1960)や『太陽はひとりぼっち』(1962)で知られる

イタリアのアントニオーニや

『去年マリエンバートで』(1961)などの

フランスのアラン・レネ

『ざくろの色』(1969)などの

グルジアのパラジャーノフ

などが挙げられますかね

特にはストーリーに対する自由な解釈や深読みではなく

そもそもストーリーそのものに依拠しない

そんな開かれた映画たちです

まあいわゆる一般的な映画とちょっと違うので

一見すると退屈したり戸惑いを隠せないかもしれませんが

というわけで

次回は近年登場した

ユニークな一本の映画をご紹介したいと思います

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