映画『未来世紀ブラジル』
1985年公開のイギリス映画
『未来世紀ブラジル』
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監督は
モンティ・パイソンのメンバーとして知られる
鬼才、テリー・ギリアム(1940-)
…
近未来のとある国
ここでは情報省によって
国民の生活がすべて監視されている
その大元がダクトを製造する国営企業で
ダクトを使った通信回線を通して
国民を管理するシステムとなっている
ある日
担当のお役人が
テロリストの容疑者ハリー・タトルを捜査する書類を作成中
叩き落とした虫がタイプライターに落ちて
タトルの字を“バトル”と誤って印字
結果
まったく無関係な庶民のバトル氏が連行され
彼は拷問中に死亡してしまう
と
ミスの責任回避を任された情報省のサムは
バトル氏の無実を訴える同じ住人の
ジルという女性をひと目見て
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毎晩夢に出てくる女性とそっくりなことに気づく
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そんな折
サムは修理屋を名乗る正真正銘のテロリスト
タトルと出会い(デ・ニーロ!)
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ひょんな成り行きで
自らも反体制グループと行動を共にしてしまう
相変わらず夜毎
美女を救うために
怪物と戦う夢を見ていたサムだが
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気がつくと
自身も政府に追われる身となり
やがて情報省によって逮捕され拷問を受け
そうして精神を病むに至る…
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と
情報が統制された全体主義国家
マスメディアの力を有した消費社会体制
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至るところ
無数のダクトが乱立する
無機質な工業化の忙しないイメージ
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グロテスクで劇画チックな人物造形
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おいおい…
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そうした窮屈な現実から解き放たれるように
主人公サムが見る夢
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どうやらギリアムは
中世の騎士を
創作上のインスピレーションとみなしているようで
彼の他の作品にも
こうしたビジュアルイメージが繰り返し出てきますね
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夢のシーンに登場するサムライの怪物の威容
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とまあ
鬼才ギリアムによって創造された
ディストピア的な未来世界
その視覚的ユーモアの卓越したセンスに溢れた本作を
なんと僕は
高校一年生の時に
ひとり映画館で観ているのです
今から35年以上も前でして
場所は有楽町の駅前にあったスバル座
恐ろしく懐かしい話だなぁ
あの時はたしかデ・ニーロ目当てで
観に行った覚えがありますが
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全編にわたる不気味でシュールな世界観は
少年だった僕には少々刺激的で
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でも奔放なイマジネーションに富んだ
この大人の映画にすっかり魅了され
密かな喜びで満たされたように思います
と
そんな僕にとって
長らくお気に入りの一本となっていた
この『未来世紀ブラジル』を
先日久しぶりにAmazonプライムで
何回目ぶりかで観たのですが
う〜ん
どうしたものでしょうか
今観ると不思議なことに
これがひとつも面白くない…
レトロモダンな味わいを醸し出す
ブルーグレーがかった世界は
主人公ジョナサン・プライスの
冴えないキャラと相まって
なんとも地味で
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また以前観た時は
テンポが小気味よかったはずが
なぜか全然ノれず遅々としていて
正直、退屈極まりない
豊穣なはずのビジュアルも
どうにもチープすぎて
くだらない
つまるところ毒がない…
(ええっ)
って
よくよくその理由を考えてみますと
早い話
僕らが生きている現実世界の方が
はるかに刺激的で
先を進んでいるからではないでしょうか
わざわざカリカチュアライズしなくとも
実際の方がよっぽどグロくて
もちろんリアルなわけで
まあ映画で描かれている管理社会といえども
近年における科学の発展と
インターネットの普及、グローバル化
そしてネット監視が公然と横行している世の中
特には現在
コロナ禍真っ只中という
危機的な状況がもたらすこの閉塞感
がんじがらめな窮屈さには
よくよく到底及ばないかな
そうした認識がダメ押しとなってか
本作を観ても
全体的なトーンがどうにも牧歌的で
物足りなく感じてしまう僕がいるんですよね
また極端な描写で展開する
ディストピア的な世界観そのものが
観ていてなんとも薄っぺらい
つまりは
今見るとなおさら
モンティ・パイソンあがりの
コントの域を出ない
ということになりましょうか
もちろんモンティ・パイソンそれ自体は
僕も大好きで
シュールでナンセンスなギャグは
最高なのですが
これを映画で表現しようとすると
ともすればくだらなくなってしまう…
これは松本人志が撮った映画にも
当てはまるのですが…
コントならコントでいいんですが
それを映画にする際の
なんらかの世界観が
ビジュアルとして表現されていないと
何のための映画なのか
一見わからなくなってしまいます
まあ往々にして
例えば
タレントや芸人が映画を撮った際に
否応なく露呈することは
言ってはなんですが
そのビジュアルイメージの
絶望的なまでの乏しさですよ…
一概にギリアムの映画が
そうだとは言いませんが
この手の映画は
途端に陳腐になるといいますか
下手にお金をかけた分だけ
スケールだけは大きくなるものの
本質の部分は何も変わらない
これだったらTVで十分だろ…
ふと
これが例えば
フェリーニの場合はどうかと言いますと
フェリーニは
映画をサーカスと見立てていたわけですが
フェリーニは映画を作る際に
単にサーカスを再現するのではなく
そこに宿る本質…
祭りの混沌
道化の悲喜劇
全編に漂う郷愁
といったサーカス的なニュアンス
いわば“要素”を
映画という媒体で表現し
その目には見えない感情的な熱
そこに確かに息づく空気感を
フィルムに刻印したのであって
つくづくここが
似て非なる点かな
って
ここまで言いたいことを
散々言ってしまいましたが
しかし強いてギリアムの良さを挙げるなら
映画に対する創作愛
もとよりモノ作りへの飽くなき欲求が
これ確かに込められているなぁ
そこは何はさておいても
敬意を表さなくてはならないなぁ
と実感する次第です
…が
でもやっぱり
この『未来世紀ブラジル』は
いやはや
しばらく思い出の中に
しまっとけばよかったかな…
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