悪意の所在

ふと

つくづく

相手に対する言動

言い方や振る舞いに

かりに

悪意

…はなかったとしても

受け取る側が

そこに悪意を感じたとしたら

果たして

それは悪意があった

ということになるのでしょうか?

う〜ん

発した側は

そのつもりがない

それは心外だ

としても

受け取る側が

それを感じた

としたら

それは一体

どちらが正しいのでしょうか?

これは

性格といいますか

価値観といいますか

鈍感と敏感の差

だったりもしますが

やはり

ある種、被害を受けた側が

そう感じた以上

発した側は

そこに最善の配慮を

示さないといけないのではないでしょうか

まあ発した側も

本人が自覚しないまでも

潜在的には

悪意があった可能性は否めない

…かも⁈

あるいは

性格の不一致と言ってしまえば

それで終わりかもしれませんが

思うに

人間関係って

そういうことの連続

社会生活を営む上では

往々にして

他人に合わせないといけない

そこを自分が折れて

適応していかなければならない

もちろんそれだけでは

窮屈になって

ストレスが増していけませんので

まあよくて

半分

いや3割程度

自分を出す

自分を表現する

そのくらいでちょうどいいのかなと思います

加害と被害の

この決して相容れない

厳然とした立場の違いは

右寄りと左寄りの論争にも

通じる話で

お互いがお互いの立場を

守ろうとすればするほど

そこに固執すればするほど

ますます

溝が深まり

決定的な亀裂をもたらすのが

これ常でしょうか

おっと

少し話が逸れましたが

いずれにせよ

悪意のありかを

あえて求めることもなく

できる限り

なきものにすべく

日頃より

言動には

くれぐれも気をつけたいところ

…ですね

おまけ

ジョルジュ・ルオー

「ミセレーレ」No.5

《罠と悪意のこの世で、ただひとり》(1923)

↓↓↓

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1948年に出版された

ルオーによる

58点からなる銅版画集

「ミセレーレ」の中の1点

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