映画『バッファロー’66』
1998年製作のアメリカ映画
『バッファロー’66』
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ミュージシャン、画家、俳優など
様々な顔を持つ異色のマルチアーティスト
ヴィンセント・ギャロ(1962–)が
監督・脚本・主演・音楽と
ひとり4役をこなして作り上げた渾身の一作です
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冒頭
刑務所を出る…
寒さに震える…
用を足したい…
トイレを探して建物に入るが
トイレがなかなか見つからない
…を繰り返す不条理
苛立ちとともに露わになる屈折した心理
グレーを基調とした渇いた映像
自身の孤独な内面を視覚化したような
寒々とした荒涼たる風景が全編を覆います
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愛情に飢えた子供時代
いびつな家庭環境
刑務所に入った経緯
無謀な計画…
5年の刑期を終えて出所したビリーは
ひょんな流れで
無理やり連れ出した少女レイラとの
つかの間の道中を通して
心身ともに荒み冷え切った状態から
少しずつ己を取り戻していきます
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映画は陰湿な物語設定ながら
クリスティーナ・リッチ演じる少女との絶妙なかけ合いとも相まって
オフビートなテンポの中
終始ほのぼのとした空気感を宿します
それにしても主人公ビリーの
どこまでも自意識過剰でネガティブ思考なあり様
「もう生きてられない」
とトイレの鏡の前でひとり嘆く姿が痛ましい
しかし同時にその様は
たぶんにナルシスティックであるわけですが…
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ふと若い頃
自分も何という気なしに
ひとり落ち込んでクヨクヨしてたことがあったなぁ
と、今になってその頃のことが無性に懐かしく感じられ
はて
自分はあのとき
一体なんでそんなに落ち込んでいたんだろう
と、そうした精神状況に陥った一端を探ってみるのですが
どうにも思い当たる節がない
と言いますか
原因はもちろん覚えているのですが
それ自体いま考えると
そう落ち込む話ではなかったりして
よくよく若い時分の
満たされない
何も変わらない
将来の姿が見えない
そんな鬱屈とした目の前の現実に嫌気がさし
つい周囲に対して必要以上に過敏になり
現実は何も起きていないのに
頭の中では自分中心のドラマチックな出来事が
目まぐるしく展開し…
でもふと気がつくと
空虚な現実のみが目の前に横たわり
現実と妄想とのあまりの落差に愕然とする
さらには
自分自身が惨めなダメ人間であると思い込み
そうした負のスパイラルにどこまで嵌りこんでいく…
ビリーの落ち込みぶりを見ていて
つくづく不可解ではあるが
でもどこか見覚えがあるなぁと
ひとり密かに合点する次第です
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って
よくよく繊細で小心者で傷つきやすくて神経質
そして完璧主義者
つまりビリーとは
他ならぬギャロ自身
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パズルのピースを探し出すように
己の内面に隠されたパーソナリティを
ひとつひとつ露わにし
“ギャロ”という特異な世界観を構築していく
これはある意味、絵画
いや彫刻の制作アプローチに近いかもしれません
さらにはギャロという類稀なる素材を
離れた眼で見る演出家としての
もう一人の自分
よくよくナルシスティックの極みのような
自己完結型の創作スタイル
そうして出来上がった映画は
これまさにコンセプチュアル・アートとして
ストイックなまでの純度を獲得するに至っています
また脇を固めるキャストがこれまた渋い
両親役は
カサヴェテス作品の常連ベン・ギャザラに
アンジェリカ・ヒューストン
賭博のノミ屋にミッキー・ローク
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ボーリング場の店主にジャン=マイケル・ヴィンセント
元憧れのクラスメイトにロザンナ・アークエット
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さらに本作では
ギャロのファッションにも注目です
レザージャケットがとにかくカッコいい
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というわけで
いやあ
異能の人ギャロの自己愛が炸裂した愛すべき一本
あらためて必見です
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