映画『ゆきゆきて、神軍』
1987年公開の日本映画
『ゆきゆきて、神軍』
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監督は数々の問題作で知られる鬼才
原一男(1945-)
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1982年、神戸でバッテリー商を営む奥崎謙三は
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仕事の傍ら
自ら「神軍平等兵」と名乗り
慰霊と戦争責任追及の活動を続けていた
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太平洋戦争において
凄惨を極めたニューギニア戦線の
数少ない生き残りの1人だった奥崎は
戦時中に所属した部隊で
終戦後、23日が経ったにもかかわらず
敵前逃亡の罪で2人の兵士が射殺されていた事実を知り
その真相を究明すべく
処刑したかつての上官5人を訪ね歩き
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自ら真偽を問いただしていく…
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過激な言動で知られたアナーキスト
奥崎謙三を追った
驚愕のドキュメンタリーです
と
突如
映し出される映像が
スローモーションに変わり
奥崎の口から発せられる怒号と共に
対象者に掴みかかり
もみくちゃになり
馬乗りになって
殴りつける…
う〜ん
初めて観たときは
ぶっ飛びましたね…
そのリアルで生々しいやりとりに
観る者も
自ずと不安と緊張を強いられ
先の読めない展開を
固唾を飲んで見守りほかありませんでしたね
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だが
よくよく
奥崎は
カメラを前にして
少なからず発奮しています
カメラが回っているという
ただそれだけで
本来の自分以上の
自分を見せる
つまりは
往々にして
過剰なパフォーマンスを発揮する
というニュアンスが生じる
それを映像の端々に見てとれます
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う〜ん
つくづく
これを演技と呼ばずして
なんと呼びましょうか
つまりは
これが
よくいえば演出
悪くいえばやらせ
というものじゃないのでしょうか
そうなると
一体
どこまでが演技で
どこまでが素なのか
一概にはわからない
もしかしたら
本人もわかっていないのかもしれない
つくづく
演技とは一体何でしょうか
演出とは一体何でしょうか
そして
あらためて
ドキュメンタリーとドラマの違いって
一体何でしょうか
本作は
奥崎のエキセントリックな姿を通して
この命題を
観る者に突きつけます
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そして
あらためて
カメラと被写体は
共犯の関係にある
奥崎も奥崎なら
撮る方も撮る方です
どんどん突っ走っていく奥崎を
まるで助長するかのような
カメラの姿勢
対象に熱中し肉薄するあまり
画面の端っこに
チラリと映り込んでしまう
録音の棒
しかし
そんなことは
この際どうだっていい
まさに原監督をはじめとする撮影班の
前のめりな姿勢の反映で
そうしたカメラと被写体のある種の共鳴が
凄まじい緊張感を画面にもたらす
ここに映し出されているのは
その熱量のまぎれもない産物ですね
というわけで
『ゆきゆきて、神軍』
う〜ん
すごい映画
まこと目を見開かされる
衝撃のドキュメンタリーです
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