映画『尼僧ヨアンナ』

1961年のポーランド映画

『尼僧ヨアンナ』

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監督は鬼才

イェジー・カヴァレロヴィチ(1922-2007)

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1950年代中頃から60年代前半にかけて

当時のポーランドにおいて

政府が推奨する社会主義リアリズムに異を唱え

自由で斬新な表現に満ちた映画を

果敢に製作する動きが起こります

この潮流を担った映画作家たちは

“ポーランド派”と呼称され

一時期、世界の映画シーンをリードする勢いを有していました

カヴァレロヴィチは

そんなポーランド派の中核的存在として

精力的に秀作を発表

とりわけ

本作は

彼の映画作家としての真価が発揮された

まぎれもない代表作です

ポーランド寒村の尼僧院

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悪魔に憑かれた尼僧たちを祓うため

この地へやってきたスーリン神父の前に

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尼僧長ヨアンナが

おもむろに姿を現わす

自分にはハつの悪魔が取り憑いていると告げ

すぐさま

彼女の表情と声が一変

悪魔に憑依されたような言動を見せる

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庭では

大勢の尼僧たちが

狂乱状態で踊っていた…

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時と場所が定かでない

この最果ての地の

閉ざされた空間で繰り広げられる

一種異様な世界

映画は

悪魔に憑かれた尼僧ヨアンナと

悪魔祓い師の神父スーリンとの

愛憎に満ちた確執を軸に

信仰と人間的本性の対立

その精神的危機の有り様を

様式美に貫かれた画面構成による

張り詰めた空気感

神秘的なムードを漂わせながら

シンボリックに描いていきます

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美しいモノクロの映像に

ひときわ映える

白装束の尼僧たち

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特筆すべきは

悪魔憑きを

抑圧された人間性の表出とみなしている点

とりわけ

本作においては

尼僧たちの

奥底に封じ込めていた

生々しい性への渇望が

悪魔という媒体を通して

にわかに呼び覚まされるのです

つくづく

けたたましくも卑猥な笑いとともに

あぶり出される

剥き出しの本性

突如

変貌を遂げるヨアンナの異様

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身体を反り返らせたブリッジの体勢や

逆向きの姿勢に見る

尋常ならざるムード

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禁欲的で慎ましい尼僧たちの

タガの外れた狂乱ぶり

まさに集団ヒステリーの様相を呈しています

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ふと

尼僧たちの

あまりに自由で開放的な姿は

どこか

社会主義国ポーランドの

抑圧された管理体制に対する

女性たちの反抗のメタファーにも見え

いずれにせよ

国家や教会など権力の側は

公開当時

そうした危うい解釈ができる本作を

到底、看過できなかったのではないか

そのように推察します

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本作は対話の映画でもあります

「悪魔とは何かとご存じあるまい

悪魔につかれたのではない

ヨアンナ様から天使が飛び立ったのだ

あれが本来の姿なのだ」

ヨアンナ

「悪魔に魅入られていることが

私の喜びです

宿命として誇らしいです

悪魔が私を苦しめるからです」

神父スーリンと尼僧ヨアンナとの

濃密なやりとりが心に響きます

尼僧の白衣と神父の黒衣など

白と黒のコントラストが鮮烈ですね

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そして

なだらかな丘陵の野原を背景に

尼僧院と宿屋という限定された空間で

繰り広げられるミニマムな世界

いわば

聖(=尼僧院)と俗(=宿屋)の振り子

前述したように

悪魔とは

性への渇望の表れ

すなわち

俗世間への断ち切り難い思いの

これ顕在化した姿

カヴァレロヴィチは

本作について

いみじくも以下のように語っています

「私は『尼僧ヨアンナ』を、人間の本性を描いた映画にしたかった。

押しつけられた制約や教義に反抗するという本性をね。

最も重要なのは、われわれが愛と呼ぶ感情です。」

つまり本作は

悪魔の形を借りた

神父と尼僧の愛の物語ということになる、と

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ふぅ

つくづく

なんとまあ

すごい映画表現

深淵な世界観でしょうか

というわけで

『尼僧ヨアンナ』

鬼才カヴァレロヴィチが

愛と信仰の是非を問うた力作

いやあ

今更ながら必見です

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