映画『去年マリエンバートで』
映画評
1960年製作のフランス映画
『去年マリエンバートで』
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監督は
フランス・ヌーヴェルヴァーグの時代
ゴダールやトリュフォーの向こうを張った
“セーヌ左岸派”を代表する異才
アラン・レネ(1922-2014)
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いやあ
映画史上屈指の難解さ
しかしこれほどミステリアスで魅惑的な映画が他にありましょうか
バロック式の静謐で厳かな城館
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長くゆるやかな移動撮影によって捉えた
めくるめく館内とそのディテール
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そこに重なる
呪文のように繰り返される言葉
「前世紀の建築物
豪華で陰鬱なこの館
廊下は果てしなく続く
過剰に装飾されたサロン
静かな部屋
足音さえ耳に届かない…」
やがてカメラは
舞台劇とそれを鑑賞する人々の空間に辿り着きます
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終幕と同時に繰り広げられるパーティ
夜会服をまとった人々の妙にゆっくりとした足取り
ひそひそと交わされる断片的なとりとめのない会話
しばしの無音…静止する画面
時間の概念が希薄な
亡霊のごとき無機質な世界
およそ空虚で現実感がありません
程なくして男が女に語りかける
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「私を覚えてないようだね」
男は去年マリエンバートかどこかで会ったというが
「勘違いを…私ではないわ」
女にその記憶はない
「思い出して」
それでも男は何度も何度も女に同じ話をする…
一体全体これは単なる大人のゲーム?
男がただ誘惑してるだけ?
それにしては男の方は真剣そのもので
話も細部にわたり事実を言っているように見えます
と
男に何度も迫られるうちに
女は徐々に男の話を受け入れるようになっていき
やがて過去と現在の境を見失い
その記憶も曖昧なものになっていく…
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さらにさらに
幾何学模様で散りばめられた
人工的なフランス庭園
オブジェのように配された人物たち
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夢か
幻影か
幽霊のように存在感のない人々
そしてこわばった表情の女
う~ん
その意図するところは一体何なんでしょうか?
繰り返される言葉
同じ場所を何度も行ったり来たりの館内と庭園
固く閉ざされた表情の人物たち
移ろう心
曖昧な記憶
超越された時間
その絶えまない反復…
永遠に続く迷路のような
しかしその世界は冷たい死のイメージ
映画はそこに囚われた人々
特には女を
この無機質な世界から連れ去ろうとする試み
彫刻のごとき硬質な美貌の女に命を吹き込み
人間性を回復させようとする
そんな男の試みを
何かしら隠喩を込めて視覚化しているようです
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でもそこから抜け出るのは
そう容易なことでない
なぜならそこは受け身でいることの楽な
秩序と安定が保たれた居心地の良い世界だから…
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ではその世界とは一体何の象徴でしょうか?
脚本は1950年代に
アンチ・ロマン(=反小説)を是としたヌーヴォー・ロマンで名を馳せた作家
アラン・ロブ=グリエですのでね
つまりは従来の常識や旧体制
過去の遺物や囚われた心
はたまた停滞、依存心、固執…
そうした諸々の抑圧された負のイメージに対するアンチ…
そう
本作は自由を巡る攻防がテーマ
でも自由であるということは
それだけ不安や恐怖、リスクがつきまとうもの
そうした諸々の感情にとらわれ苦悩しつつ
それでも最後に女は監視する番人を振り切って
男と共に館を立ち去ります
外は茨の道が待ってるかもしれない
でも女は自分の人生を歩み始めるのです
いやあ
次から次へと
とめどなく溢れ出る発想や解釈
映画では
人物の過去や内面など一切描かれません
しかし映像の端々における記憶の断片が
いわば意識の流れと共に
頭の片隅にいつまでもこびりついて離れません
つくづく
なんという稀有な映画でしょうか
アラン・レネが放つ実験的な野心作
あらためてオススメです
お初です☆色んなブログ巡回していたらたどり着きました☆最近アメブロを勉強している私にとって学ぶ所がたくさんある記事でした♡私はいろんなことにチャレンジしたことを最近書いています!また遊びに来てください♡
>ふみさん
コメントありがとうございます。
お互い頑張りましょう^_−☆
認知心理学で言われるところの『記憶の再構築』ではないでしょうか(笑)
解説されると観たくなってしまうから不思議です。
>(株)第二営業部 教授さん
コメントありがとうございます^ ^。
はい、明らかに記憶が、編集の妙で再構成されてますね。