善行を積むリスク

ふと

以下に

ピーター・ドラッカーの言葉を引用

「間違いや失敗を

犯したことのない者というのは

単に無難なこと

安全なこと

つまらないことしか

やってこなかっただけである。

逆に優れている者ほど

数えきれない間違いを犯すものであり

これは

常に新しいことに

挑戦している証拠である。」

ここでいう

無難なこと

安全なこと

つまらないこととは

一体なんでしょうか⁈

いろいろと挙げられるのでしょうが

あえて

僕は

善行

と言われているものも

ここに含まれるのかなと思います

単純に

善行

例えば

ゴミ拾いをしたり

ボランティアをしたりという

そうした

いわば奉仕活動や

あるいは

寄付などが

想起されると思いますが

それらは

人に喜ばれこそすれ

まず非難されるものでは決してありません

特に目に見える行いは

やった分だけ

人に感謝されるものでして

それがやっている当人にとっても

何より励みとなりますし

自分自身に対する自信や

やりがい

それがひいては

生きる実感や

自己の存在証明に

つながったりするわけです

う~ん

ちょっと意地悪な言い方をしますが

善行は

それ自体が

文字通り善である

という意味では

もう無条件に

安心する

つまりは

人の役に立っているという安心感に

包まれるわけです

ここがミソなのですが

無条件に

100

良い行い

というのが

う~ん

なんとも安易といいますか

ある意味

危険なのかなと

僕は感じます

そこに異論を挟む余地がない

批判される要素が見当たらない

ということは

それは

すなわち

安全圏というわけでして

ついつい

そこにこもりがちにならないかな、と

先のドラッカーの言葉と照らしてみますと

むしろ不安を覚えたりさえします

では一体どうすればいいのでしょうか⁈

極論を言えば

善行を控えて

悪行に走ればいいのでしょうか

まあ

確かに悪行の方が

よっぽど危険で

日々緊張感にあふれ

チャレンジングな体験が

ついて回りそうではありますよね

でも

何もわざわざ好き好んで

悪行に手を染めるというのも何ですよね

まあ一般的に

善行を積むのは

人生で成功した人だったり

高齢の方が多いですが

これは

よく言われるところでは

若い頃に

さんざん

悪行の限り(個人差はありますが…)

尽くしてきて

あるいは

人から恩を受けたり

お世話になってきたので

今度はようやく自分が還す番だと

まあそういったモードで

善行を積まれるというケースが

大いに考えられるところだと思います

つまりは

長い人生において

善悪のバランスが

うまく合っているわけですね

善だけでもなければ

悪だけでもない

そこのバランスが大事だと

つくづく思います

ということは

まだ年も若く

過去に

大した悪行も犯してこなかった

もっとも

犯す勇気もない

僕ら一般人が

コツコツと

善行を積むということは

バランスが悪いという意味で

実は

それだけ

リスキーだということ

善行を積むということは

単に

自分自身が満たされる

安心感を得られる

安全圏に身を置く

だけでは決してなく

むしろ

善行を積んだ分

どういう因果かわかりませんが

相応の悪行に身を染める可能性が

この先ある

そうしたいわば

漠然とした不安を

常に抱えながら

それでもなお

コツコツとやり続ける

強い意志と覚悟が必要かな、と

善行を積むということは

そういうことだと

僕は

つくづく思います

↓↓↓

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