映画『ときめきに死す』
異色の日本映画です
1984年製作の
『ときめきに死す』
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監督は日本が世界に誇る奇才
森田芳光(1950-2011)
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…
自称“医者”の男は
謎の組織から
素性も知らないひとりの男の世話をする仕事を引き受ける
その男、工藤は
寡黙で酒もタバコもやらず
ただひたすらトレーニングに励む毎日
ある日
組織から梢(こずえ)という若い女性が派遣され
北海道の別荘でつかの間
3人の奇妙な共同生活が始まる
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と
工藤の正体は実はテロリストで
彼は組織からの暗殺指令を待っていた
やがて指令が下されるのだが
暗殺対象者は
町で勢力を伸ばしつつある新興宗教のトップ
谷川会長だった…
丸山健二の同名小説を
大幅に改変した森田ワールド全開の一作
終始、悠然とした空気感をたたえたテロリストに沢田研二
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ブラックな存在感が光る
ストーリーの語り手である
自称“医者”の杉浦直樹
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そして梢を演じる若き樋口可南子を加えた
3人のアンサンブルが生み出す
シュールな世界観
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冒頭
広角で捉えたピンボールの玉の行方を追う
いかつい男たち
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コンピュータのブラウン管に表示された
無機質な文字
突然の豪雨に見舞われる白装束の集団
一見なんら関連性を見出せない映像が
次々と映し出され…
う〜ん
のっけからあざといまでの意表を突く展開で
まったく先が読めません
と
全体的にはどこかチープで
古臭い印象を拭えなかったりしますが
よくよくこれは
80年代の空気を鋭敏に察知した
森田の感性の産物と捉えてしかるべきでしょう
何より主演の沢田研二という存在自体が
なんともレトロで
でもむしろこの時代の“いま”を
これ以上なくリアルに感じとることができます
またそもそも
タイトルの“ときめき“なんて言葉
小っ恥ずかしくて今どき使わないなぁ
現在においては
まず“ダンシャリ”のときくらいしか耳にしない言葉ですかね
ふと
主人公はストイックで
シンプルな生活習慣を貫いていて
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例えば食事中
余計な場所に点灯しているライトを
無駄だからと消したりします
あらためて80年代とは
過剰の時代、足し算の時代
物が氾濫し
盛んな消費で人々が世を謳歌した
バブルの時代
またコンピュータが普及し始め
本格的なデジタル化の波が押し寄せようという胎動期
そうした時代背景の中にあって
しかし主人公はあくまで真逆のベクトルで
抑制、引き算、アナログな生き方を志向し
必要なものだけで生活している
そう考えますと
なるほど沢田研二演じる工藤の価値観
その世界観を
端的に“ときめき”と表現していると解すれば
しっくりきますかね
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それはそうとクライマックス(⁈)の
暗殺シーン
あれだけ鍛錬を積んで
準備に余念がなかったわりには
あまりにあっけない
町にやってきて
人々から歓待を受ける谷川会長に近づき
実行しようとするも
いとも簡単に取り巻きに押さえられ
未遂に終わってしまう
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しかし
…なんですよ
映画はラストで
それまでの抑制されていたトーンから
一気に解き放たれます
(ネタバレになりますが…)
沢田研二のあまりに壮絶な最期
ハハハ
何なんだこれは⁈
というくらい過剰な
ありえない量の血しぶき
およそ現実味がなく漫画チックな
しかしそれでいて
観る者を激しく動揺させる
したたかな演出の妙
思わず唸ってしまいましたね
いやあ
つくづく森田芳光は天才肌の監督でしたね〜
代表作の『家族ゲーム』(1983)は言わずもがなで
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この人は日本では稀に見る作家性
何より映像に対する
明確なビジョンを持っていました
森田のフィルモグラフィーは
大衆娯楽系とアート系を
行ったり来たりしていて
その振り幅の大きさに
まずもって驚かされますが
本来やりたかったであろう
一癖も二癖もある森田ワールドを
是非どんどん推し進めてほしかったなぁ
後年は
次第に大衆娯楽映画に傾倒しがちで
まあ正直
易きに流れた感を否めませんでしたね
しかしそんな中で
1999年に立て続けに発表したこの2本は
凄い映画でした
『39/刑法第三十九条』(1999)
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『黒い家』(1999)
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これぞ森田芳光
近年のポン・ジュノやパク・チャヌク、ナ・ホンジンなど
ただいま世界を席巻する韓国映画の
まさにお株を奪う
強烈なビジュアル表現と
ダークでアブノーマルな世界観
類まれな才能と実力がありながら
存分に力を発揮することなく
61歳で亡くなってしまい
まったく惜しいかぎりです
というわけで
本作『ときめきに死す』は
森田の底知れぬ才能がいかんなく発揮された怪作です
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