映画『スモーク』
人生の哀歓しみじみ
1995年のアメリカ映画
『スモーク』
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現代アメリカ文学を代表する作家ポール・オースターの原作を基に
オースター自らが書き下ろした脚本を
名匠ウェイン・ワン監督が映像化
いやあ
20代の頃に恵比寿ガーデンシネマで観たのですが
えも言われぬ余韻を引きずって
劇場を後にしたのを覚えています
ニューヨーク、ブルックリンの街角にある
煙草屋を舞台にした人間模様
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目に見えず掴みどころのない
しかしそこに確かに存在するタバコの煙のように
物語が
映像が
人物たちによって語られる言葉とともに
観る者の胸の中にスーッと沁み込んでいきます
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つくづく
語りの映画です
煙草屋に出入りする
登場人物たちそれぞれが
人生の機微に触れた
味のある小話を聴かせてくれます
14年間、毎朝同じ時刻に
店の前の同じ場所で写真を撮り続ける
煙草屋の店主、オーギー
ハーヴェイ・カイテルが貫禄の演技を披露
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出産間近の妻を不慮の事故で失って以来
書くことができなくなった作家のポール
ウィリアム・ハートが自然体で演じます
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そして幼いときに離ればなれになった父親を捜し当てた
黒人少年のラシード
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映画は3人を軸に
ニューヨークの片隅に生きる人々の
虚実入り混じった悲喜こもごもの日常を
終始淡々と
温かい眼差しで見つめ続けます
出てくる人物たちは
各々人には言えない過去を背負っています
しかしそれがどんな過去なのかは
往々にして明らかにされません
人物たちの言葉を通して知るのみですが
それが本当の話なのか?
作り話なのか?
にわかには判別不能
タバコの煙に巻かれるように
核心は決して明らかにされない
あくまで
周辺の描写にこだわるのみ
でも直接語られなくても
相手のリアクションで
観る側は
何があったのか
今この瞬間の状況が生み出された要因を
如実にうかがい知ることができる
このわざわざ言わないあたりが
すなわち
知性
と呼ぶのかもしれません
さらには
観ていて自ずと喚起される
想像力
これはまこと文学的なアプローチに近く
まあ直裁的な表現は
野暮ですよね
それだけで十分理解できるし
真実は伝わるのかなと実感します
その最たる例となる
圧巻の終盤
オーギーがポールに語って聴かせるクリスマスの物語
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ドッシリと据えられたカメラが
事の始終を語り尽くすオーギーを
延々長回しで捉えます
と次第に
カメラが
少しずつ少しずつ寄っていき…
やがて目元のあたりまで接写する
超ドアップに…
と
オーギーが語るこの話は
果たして
事実なのか
嘘なのか
その真意やいかに⁈
いやあ
にじみ出る人柄
コワモテのハーヴェイのめったに見せることのない
はにかんだ表情が最高です
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その話にじっと耳を傾ける受け手のポールが見せる
柔和な表情もいい
2人の信頼関係が生む
絶妙な感情の交歓です
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そして劇中
このオーギーが語った話を
ポールが短編としてまとめ上げた
『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』を
本作のエンディングで
回想シーンという形で視覚化
味わい深いモノクロの映像に
トム・ウェイツのがなり声がかぶさります
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う〜ん
このエンディングのシーンは
何度観ても涙がこぼれちゃいます
都会の一角の、もはや失われつつある
この小さな煙草屋で生まれた人々の縁
タバコの煙、お金、カメラ、人々の言葉がもたらす偶然
思わぬ因果応報…
それらが巡り巡って
小宇宙を形成
そこで語られる
秘密と嘘
いわば間違いだらけの
しかしまぎれもない真実の物語
いやあ
オースターの脚本が見事で
ワンの演出も冴えわたっていて
カイテルやハートはじめ役者陣がみな素晴らしくて
つくづく
なんとまあ素敵な寓話でしょうか
あらためて
何度でも観たくなる傑作です
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