映画『田園に死す』
1974年の日本映画
『田園に死す』
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監督・脚本・原作は
歌人、劇作家の寺山修司(1935-1983)
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日本における
マルチクリエイターのはしり的な存在の寺山は
詩や歌、戯曲の執筆や
アングラ演劇の演出など
多岐にわたる分野で
その特異な才能を活かした
膨大な量の作品を遺していますが
やはり映画製作も積極的に手がけていて
長編短編にとらわれない
ユニークで独創的な映画を数々遺しています
本作『田園に死す』は
そんな寺山の代表作の一本で
寺山のプライベートな内面が表出し
幼少期のイメージがビジュアル化された
半自伝的な作品です
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また劇中
寺山の歌集『田園に死す』の短歌を
主人公が詠うシーンが
随所に挿入される構成となっています
「濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華
あかきを何の生贄とせむ」
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「かくれんぼ鬼のままにて老いたれば
誰をさがしにくる村祭」
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…
青森県の恐山のふもと
父を亡くし
古い家屋で母1人子1人で暮らしていた
少年時代の“私”は
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古い因習に縛られた故郷から逃れたい
という思いに駆り立てられながら
やがて上京し映画監督となる
そんな“私”が
少年時代の”私”と共に
自分を振り返る旅に出る…
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…
白塗りの少年時代の”私”が
肉体的精神的に切り離せない
大きな存在である母親に対する
愛憎の入り交じった複雑な心情が
恐山の土俗的な背景と相まって
禍々しくも
豊穣なイマジネーションを創出
観る者を幻惑の世界に引きずり込みます
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浜辺に打ち捨てられた仏壇
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戦前の故郷青森の牧歌的な風景
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社会的弱者たちの寄せ集まりのような
サーカス団の存在
見せ物小屋の猥雑な風情
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そして少年は
隣家の美しい人妻に誘われるまま
線路をつたって
家出をする…
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と
ここで唐突に
これが現在の”私”が撮った
自伝的な映画
…多分に誇張・美化された
の試写だったことが明かされます
「過ぎ去ったことは虚構になってしまう」
「人間は記憶から解放されない限り、本当に自由になることはできないんだよ」
語り合う監督となった現在の”私”と友人
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そうしてここから展開するのは
故郷青森の記憶や母親の存在から
いまだ囚われたままでいる
現在の“私”と
少年時代の”私”による
魂の遍歴です
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お
人妻(八千草薫)と
恋人の社会主義者(原田芳雄)による心中
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と
おどろおどろしい恐山の佇まい
侘しい田園風景
つくづく
日本に限らずでしょうが
田舎って
ちょっと怖いところがありますね
不気味というか
おぞましいというか
日本は
大体どこにでも
お寺や神社があります
つまり
古来より霊的な価値観
いわば信仰があるということ
それは多分に
風土、環境に根ざしていて
この地で
平穏に生きることを願って
神に祈るという風習
それは
五穀豊穣や家内安全などを通した
祭りの形で表され
代々引き継がれていくのです
象徴的な流し雛のシーン
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そうしたムードは
往々にして
人の生々しい息吹を感じる
キッチュで不穏な世界観を宿していて
つまりは
寺山の内面の発露としての
演劇的な人口空間の創造です
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本作『田園に死す』は
寺山の故郷青森と
そこに重ね合わせた母への思慕の念を
虚構の世界で塗り込め
彼の自伝的な要素が
短歌とともに
シンボリックに散りばめられた
壮大な映像詩と言えましょうか
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少年時代の母親と向き合い
食事をする現在の“私”
やがて家の壁が崩れ
新宿の雑踏が顕現
人々が行き交う中を
黙々と食べ続ける母と”私”
過去と現在
現実と虚構が
奇妙に融解するラストシーン
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いやあ
まさに
寺山ワールド全開ですね
というわけで
『田園に死す』
異才、寺山修司の
無二の世界観が爆発した
本作は
まぎれもない傑作です
おまけ
寺山修司について
だいぶ前に僕が書いた記事は→こちら
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