映画『哭声/コクソン』
なんてすごい映画でしょうか
2016年製作の韓国映画
『哭声/コクソン』
↓↓↓
監督・脚本は新鋭ナ・ホンジン
上映時間156分の力作です
韓国の、とある片田舎の村で
村人が自分の家族を惨殺するという不可解な事件が相次ぐ
↓↓↓
犯人たちは皆、放心状態で
共通して湿疹で爛れた異様な形相をしている
と
村人たちがひそひそと噂しているところでは
最近この村に正体不明の日本人がやってきて
そのよそ者が来てから事件が起きるようになった、と
事件を担当する村の警察官ジョングは
ある日、自分の娘に殺人犯たちと同じ湿疹があることに気づく
ジョングは娘を救うために
山奥に住む日本人の家へ行き、強引に問い詰めるのだが…
↓↓↓
ストーリーは大まかにこんな感じです
…が
國村隼演じる謎の日本人を軸に
↓↓↓
映画は次第に不気味な闇に覆われ
重層的かつ多面的な様相を帯びていき
そして中盤以降、思いもよらぬ展開へと
怒涛のごとくなだれ込んでいきます
村人たちに突如降りかかった殺人衝動を
「悪霊が取り憑いたせい」として
高名な(⁈)祈祷師イルグァンを招き
盛大な厄祓いが行われます
↓↓↓
取り憑かれたジョングの娘の豹変した演技と相まって
↓↓↓
映画は一種異様な迫力とボルテージ
凄まじいまでの緊張感に包まれます
…とまあ
あらためて
取り憑かれる話です
それは多分に宗教的、呪術的で
そうした目に見えない霊的な存在に対する
リアリティの度合いの高さ
認知、信仰の意識が
韓国社会に根強くあるというバックボーンを
あらかじめ理解していないと
この映画は一見
ただのホラーにしか見えないのかなと思います
本作は上述したプロットを用いながらも
しかし表面に映っている世界とは明らかに別の
何かが底流しています
それは何か
以下、ちょいネタバレになりますが…
それは
霊的葛藤
とでもいうべき
価値観の衝突です
つまりは
古来より村々に伝わる土着信仰
=アニミズムとも言える村の守護神
(宮崎駿の映画の世界観ですね)
と
近現代に西洋から伝来・布教したキリスト教
の衝突です
前者を体現するのが劇中に出てくる謎の女で
後者を体現している謎の日本人(國村)は
表面的にはお祓いか何かをやる東洋人ゆえ
仏教とも考えられますが
ここでは冒頭に引用された新約聖書の一説から始まり
劇中に示されるいくつかのメタファーから
おそらくは
キリスト教的価値観の来訪者を指しているようです
さらにそこに
韓国に根強く残る宗教形態
霊的存在と接触し巫術儀礼を行う
シャーマニズムが加わります
↓↓↓
ちょっと小難しいことを書いてしまいましたが
映画は韓国社会に底流する様々な霊的葛藤が
そのまま人々の感情的な葛藤
主には負の側面をもたらしているという現実を
余すことなく顕在化させています
つまりは
“霊的イコール感情的”といった構図で
そうしたある種
非論理的な土壌
因習的な価値観を
現代韓国社会に見出そうとしているかのようです
偏見、思い込み、猜疑心…
異質なものに対する不安
得体の知れないものに対する恐怖が
やがて排除のメカニズムを生み
そして…
募るフラストレーション
暴発する感情
終盤、警察官ジョングを中心に村人たちは
暴徒と化し日本人を襲撃します
↓↓↓
ふと
あとで冷静に考えてみると
謎の日本人と
豹変し殺人を犯した村人たちとの因果関係を
実際どこにも見出すことはできません
そこらへんは監督の巧みな演出の妙にもよりますが
観ている側は
現実と想像、妄想がごちゃ混ぜになった
その終始高い熱量の映像を
到底冷静に観ることなどできません
なすすべもなく災いの渦に呑み込まれていく
主人公の警察官ジョング同様
完全に曇ってしまったその独りよがりな目で
映画を
絶望に覆われたこの世界を
ただ黙って見つめる他ありません
しっかし國村隼が〇〇にしか見えないとは…
つくづく
心地よいまでの敗北感です
見事にやられましたね…
というわけで
最後まで晴れることのない数々の謎
韓国の村社会に孕む不穏な空気感
充満する目に見えない負のエネルギー
人間的な、あまりに人間的な登場人物たちのあり様
そして観る者の感情を激しく揺さぶる高揚感
逆説的になりますが
韓国映画の持つ豊穣なまでのパワーに
結局のところ
ほとほと打ちのめされた次第です
いやあ
これは傑作
今年のベスト1
早くも確定です
この記事へのコメントはありません。