映画『ラルジャン』

つくづく映画って

観る人それぞれの趣味嗜好や価値観によって

いろんな方向に拡散してしかるべきなのですが

あるベクトルにおいては

本作をもって

ひとつの到達点に達したのではないかと

個人的に実感するところです

1983年製作

フランス、スイス合作の

『ラルジャン』

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監督・脚本は

フランスが誇る孤高の映画作家

ロベール・ブレッソン(1901-1999)

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本作は

ロシアの文豪トルストイの中編小説を原作にした

ブレッソンの遺作にして最高傑作です

ある高校生2人が

ちょっとした悪戯心から一枚の偽札を写真店で使用する

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偽札をつかまされた写真店の夫婦は

しらばっくれてガソリンの集金に来た若い店員イヴォンに

この偽札で支払う

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偽札と知らずにそれをカフェで使おうとしたイヴォンは

警察に通告され、有罪となる

執行猶予となり失職したイヴォンは

銀行強盗に加わり再び逮捕され

3年の宣告で牢獄に入れられる

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やがてイヴォンの幼い娘は病死し

妻は去っていき

自身も自殺未遂を起こす

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出所したイヴォンは

一晩泊ったホテルの主人と妻を殺害し金を奪う

そして町でふと老婦人を目にし後を追い続け

そのまま彼女の家に滞在する

殺人を犯したことを告げるイヴォンに対し

老婦人は驚きの表情一つ見せず

彼に食事や寝場所を提供してあげる

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彼女は年老いた父親や家族と同居していて

彼らの世話を一手に引き受けていた

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そんなある夜

イヴォンは一家を次々と惨殺し

世話をしてくれた婦人に対しても斧を振り下ろす

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その後、彼は

カフェに居あわせた警官に

自身の今までの犯行を自白し

そして

連行される

う〜ん

もはや

絶句する他ありません

違和感を覚えるこのあまりに唐突で衝動的な展開

全編を貫く透徹したリアリズム

ラルジャン(=お金)を巡るふとした偶然から

破滅の道へと転がり込んでいく男

まるでババ抜きのジョーカーのように

人から人へと渡っていく偽札

思いもよらぬ形でジョーカーを引いた男が辿る悲劇の末路

まさに運命の皮肉

資本主義社会に内在する矛盾

とどまるところを知らずに加速し続ける負の連鎖

から

しかし映画は

思わぬ力業

運命の逆流を

最後の最後に見せてくれます

ブレッソンがギリギリの淵で見出した

可能性という名の希望の芽

ひとりの老婦人が見ず知らずの罪人を受け入れ

そして彼に殺される

すると

この犯罪者に

ある変化が訪れる

自らが被った不幸な仕打ちを恨み

世の中に復讐をするべく

悪事に身を染めていった男が

老婦人との邂逅(かいこう)を通して

良心に目覚めるのです

このある種、宗教的な転回は

遅きに失した感はあるものの

それでも彼は目覚めたのです

自首して警官に連行されるイヴォンを尻目に

群衆が外からカフェの中を見つめ続けるカットで

映画は唐突に終わるのですが

このラストシーンは

それまでの負の連鎖を逆流させる

善の連鎖の始まりを予感させます

老婦人の淡々と穏やかな佇まいからは

にじむ生活の苦労

深く根づく信仰心

そしていかなる運命をも受け入れる

自己犠牲の心を垣間見ることができます

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それが結果として善をもたらし

世の中を正のスパイラルに戻していく

こうした物語を成す背景には

ブレッソンが信奉する

ジャンセニスムの思想が反映していると言われています

ジャンセニスムとは

17世紀のオランダ、フランスのカトリック内部に生まれた

神秘主義的傾向の強い一派で

ブレッソンはこの異端の思想の信徒だったと言われています

主な特徴は

神の恩寵を重視し人間の自由意志の役割を低く見ること

言い換えれば

ブレッソンいわく

「われわれの人生は救霊予定説と偶然からなっている」と

つまり人間の運命は神によって予定されており

人は別の運命を選ぶことはできないが

だからといって人間の一生が無意味かというと

そんなことはなく

運命は予め完成された形で人間に押しつけられるのではなく

人間が現世においてさまざまな偶然にさらされる中で

少しずつ育まれていく(明かされていく)、と

そのかぎりで

偶然は神の意志を実現するための条件である

との考え方です

ふと

どこかちょっと『北斗の拳』のようですね

己に与えられた星(=運命)を受け入れ、使命を果たす的な

つまり世の中には自分の力ではどうにもならない

何か大きな力に導かれているような感覚がある

星に従うということは

与えられた役割を全うするということ

それがすなわち運命を切り開くということなのでしょうか

そしてそのプロセスにおいては

偶然に向き合うスタンスいかんで

己の主体性が決定づけられる、と

こうした特異な宗教観に根ざしたブレッソンの映画は

まさに独特の哲学に貫かれています

無駄な要素を削ぎ落とした禁欲的な画面構成

大胆なカットの飛躍による場面の省略

特には度々挿入される断片的なショットの数々

手や足のクローズアップのみで

場面状況を、ことの次第を

鮮烈なインパクトをもって象徴的に表現します

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さらには音楽を使用せず

誇張や感傷などドラマティックな高揚を排し

あくまで抑制されたトーンで

淡々と出来事を追っていくのみという簡素な演出

そしてプロの俳優ではなく素人を起用し

そもそも役者たちのことをモデルと呼び

彼ら彼女らに内面的な演技をさせることを好まず

無表情、少ないセリフ回しと身振りを求め

あえて表面的身体的な

ありのままの姿を収めようとしました

結果、映し出されたフィルムは

異様な緊張や迫力、真実味に溢れ

観ていて

得も言われぬ感慨に包まれるのです

あらためて映画は

1秒間=24コマのフィルムが

規則正しい運動をすることによって成り立ち表現される

動く写真、いわば時間芸術である

という基本的な認識です

ブレッソンは

フランスのリュミエール兄弟が

1895年に初めて動くフィルムを人々の前で映写したことを

映画の起源と捉えるスタンスに立脚し

自身の映画を「シネマ」ではなく

「シネマトグラフ」と呼称しました

運動する映像と音響の集積としてのシネマトグラフへ

こちらはブレッソンの映画術を端的に表した名著です

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そんなこんな

いやあ

お金という

神の信仰という

この表裏一体を成す世界観

つくづく映画という媒体は

果たして何を見せることができるのでしょうか?

どんなことを表現することができるのでしょうか?

ブレッソンが到達し得た高み

映画表現の新たな地平に

驚嘆と

そして感動を覚えること必至

というわけで

『ラルジャン』

映画史に屹立する無二の傑作です

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