既存のフレームを壊す映画
ただいま映画は
CG全盛の時代
もはやアニメーションにも決して引けを取らない
どんな表現も可能になった感がありますね
特には
ファンタジーやアクションなどのジャンルで
それは顕著で
その驚異の映像には
ただただ圧倒されるばかりですが
ふと
CGの発達にともない
できない表現がなくなったからといって
果たして
人は本当に自由を獲得できたのでしょうか?
そしてそもそも
それが映画の面白さにつながったのでしょうか?
う~ん
映画は多くの人や金、時間と手間が結集されてできるものなので
商業ベースに乗った一般的な映画は
いかんせん表現上
様々な制約に見舞われます
しかし
それに甘んじることなく
どこまでも新たな独自の表現を
追求し挑んでこそ
クリエイターのクリエイターたるゆえん
とはいえ
そんな創り手の気概が
市場のニーズとか
製作側の思惑とか
映倫とかに
阻まれて
結果
諸々の制約に甘んじざるを得ないのが
現実といったところでしょうか
そう考えると
結局のところ
いくら表現手段が自由になったところで
創り手も製作側も映画業界も
全てひっくるめたところの
肝心要の
人間の頭の中が
自由どころか
カゴの中の鳥状態だと
まあ映画はなんにも変わらない
どころか
CGに依拠した分だけ
表現が退化する危険性に
満ち満ちているのかな、と
そう考えると
本当に大切なのは
人びとの頭の中にあるフレーム
社会の枠組みにおける
常識や価値観
モラルや道徳
などをぶち破る
真に自由な表現にこそあるのかなと思います
そして
ここでいう真に自由な表現とは
どういうものかといいますと
前述したように
既存のフレームをぶち壊すわけですから
それはたぶんに
感情を揺り動かすことになるわけでして
観る者の感情を
激しく揺さぶるということは
少なからず痛みを伴うもの
それも精神的な痛みです
と
ちょっと前置きが長くなりましたが
今回は
既存のフレームをぶち壊す
破壊力を持った映画をご紹介します
◎『ファニーゲーム』(1997)
↓↓↓
オーストリアの鬼才
ミヒャエル・ハネケ監督の問題作
物語が進行する中
途中
おもむろに垣間見せる
この物語が映画であると気づかせる
あざとい演出
人間の悪意を
しょせんは映画の中という前提を示した上で
表現しようと試み
結果これ以上なく
観る者の感情を
逆なでさせることに成功した映画
◎『セブン』(1995)
↓↓↓
ご存じ
デビッド・フィンチャー監督
ブラピ主演の刑事ドラマですが
観終わった後
えも言われぬやるせなさと
敗北感に打ちひしがれること必至
◎『オールド・ボーイ』(2003)
↓↓↓
韓国の鬼才
パク・チャヌク監督による問題作
観客は
劇中で主人公が経験する
想像を絶する苦痛を
追体験することになります
この映画にはやられましたね
倫理上どうなのよ〜
という議論が
巻き起こるであろうこの映画ですが
う~ん
前述した
既存の価値観をぶち壊すとは
まさにこういうこと
このパク・チャヌク監督は
間違いなく確信犯
おそらくこの人は
映画のことをよ~く知りぬいています
クリエイターとしての気概を
エンターテインメントの殻で包みこみながら
見事に示した映画と言えましょう
つまり
これら今挙げた映画は
観客の反応を誘発し
絶望を促すことを
初めから意図した演出を試みているという点で
いわば観客へ
挑戦状を叩きつけていると言えるのです
ということで
最後に
既存のフレームをぶち壊す映画といえば
もうこれ以上の映画は
他にないでしょう
イタリアの鬼才パゾリーニの
遺作にして
映画史にその名を刻む
世紀の問題作です
◎『ソドムの市』(1975)
↓↓↓
う~ん
この映画は大学時代にビデオで観て…
猛烈な不快感と嫌悪感に襲われると同時に
正直
明らかに
僕の中の何かが
変わりましたね
当時の僕の
ちっぽけなフレームが
粉々に砕け散ったことは
言うまでもありませんね
いやはや
なんとも
これ以上の話はもう
勘弁です…
というわけで
お休みなさい…
この記事へのコメントはありません。