便利さの弊害

度々書いていることですが

物事には両面があって

一方だけが

いつも正しいなんてことは

決してないと

常々思います

例えば

便利だったら

もう無条件にいい

どんどん推奨すべき

かというと

う~ん

僕は必ずしもそうじゃないと思います

むしろ現代人は

便利になった分だけ

それと同等の

何かを

失ってしまったと考えるべき

それは想像力や情緒だったり

あるいは基礎体力だったり

いろいろなものが挙げられると思います

ふと

身近な話ですと

幼稚園などは

設備的に至れり尽くせりだと

ちょっとどうかなと思いますね

あまり便利すぎるのも

かえって子供の成長を妨げる要因に

なりかねないかな、と

少しぐらい不便な方がいいと思いますね

つまり世の中

便利というベクトルだけでは

片手落ちだということ

さらには

便利がいいかどうかの度合いは

あくまで

需要と供給のバランスによって

変わってくるのです

どういうことかと言いますと

例えば

よく痛感することですが

大きな駅の不便さ

新宿駅や渋谷駅の

使い勝手の悪さ

無駄に歩かされて

いつでも恐ろしく人が多くて

ほとほと疲れちゃいます

これは設計者が

初めから意図していたかどうかは

わかりませんし

後になって

どんどんと新しい線が

付け足されていったりして

現在の駅の姿になっているのでしょうが

よくよく考えてみますに

あまり便利過ぎて

利用者が増えていけば

ますます過密状態となり

その便利さが

今度は仇となって

かえって不便になりかねないかな、と

需給バランス次第ですが

むしろ利用者に

適度な負荷をかけた方が

つまり

不便なくらいが

ちょうどよかったりしますよね

また

違う例でいいますと

数年前

フィリピンに行った際に

街で

数名の男たちが

とあるブロック塀を

杭のようなもので

何度何度も

打ちつけて

壊している光景を目撃しました

その光景を何気なく眺めていて

う~ん

大の大人が

何人も集まって

一体なんて

非効率なことをしているんだろう

重機があれば

一発で破壊できるのに

すると

僕のそんな素朴な疑問に対して

添乗員さんが答えてくれました

重機なんかで瞬時に片付けてしまうと

あの大人たちの仕事がなくなってしまう

あれは彼らの大事な仕事なのだ、と

効率など求めず

ダラダラと時間をかけて

あの塀を取り壊すこと

ある意味

雇用を延ばすことにつながり

それによって

彼らの食いぶちを

少しでも確保することができるのだ、と

へぇ

これは

日本で何不自由なく暮らしている僕には

少なからぬカルチャーショックでしたね

スピードや効率を

むしろ求めない方が

よしとされる価値観

フィリピンの経済事情

そのベースとなる需給バランス

ここでは便利じゃない方が

結果

多くの人々が食べていけるんですね

言わずもがなですが

世の中には

目に見えるもの見えないものを

ひっくるめて

様々な側面、価値観が存在しています

一つの極、軸

視点やベクトルだけで

物事を捉えるなんてことは

決してできず

それらが

重層的に折り重なって

世界が形成されているんですね

つくづく

自分の日常を取り巻く環境だけで

物事を捉えてはならず

もっと広く世界を見るべきだなと

思う今日この頃です

おまけ

『ガンディー「知足」の精神』

↓↓↓

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イギリスの植民地支配から

インドを解放へと導いた

マハトマ・ガンディーの

思想の一端「知足」を説いた書

その是非は意見が分かれるところで

諸説ありますが

ガンディーは

大量生産のあり方に危惧を示すなど

便利さの弊害を訴え続けたことで

知られています

関連記事

  1. そうですね

    便利になっていくことは大事ですが

    無駄な便利はいらないし昔からあるものが
    失なわれてしまうと逝けないと思います

    便利になっていくことは子どもたちの病気も増えていくと思います
    感染症など

    昔は自然の中で遊び学んで自然に身体に免疫力を浸けていったでしょう
    今は難しくなっているのでは
    自然、昔の遊びは便利になっていくことは考えていかないと

    未来は便利が不便になっているのでしょうか?

  2. チョー!

    >竜さん
    わざわざコメントありがとうございます^ ^。