『萩原朔太郎詩集』

ふと

なんとなくご紹介

現・群馬県前橋市出身

主には大正時代に活躍し

「日本近代詩の父」と称された詩人

萩原朔太郎(1886-1942)

↓↓↓

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彼は

配列や韻律など

規則的な形式を用いた短歌や俳句などの

伝統的な定型詩から脱し

自由な構成で

自身の感情や意志を日常の言葉で表現

また題材も

かつての花鳥風月から

日常的な社会生活全般に及び

眼前に映る何気ない光景や出来事に対し

その鋭敏な感性をもって

自ずと湧き上がる心情

…自身のその憂鬱なる世界観に覆われた内面を

赤裸々に吐露するのです

このいわば

「口語自由詩」を用いた最初の作品が

第一詩集『月に吠える』(1917)で

日本においてはこの作品をもって

近代詩の扉が開いたと言われています

ということでご紹介

そんな孤高の詩人の厳選された詩集

『萩原朔太郎詩集』

↓↓↓

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本書は

『月に吠える』から始まり

代表作の数々を創作年代順に編まれた詩集で

朔太郎の作品世界の真髄と創作の軌跡を

余すことなく捉えています

と今回は

『月に吠える』と並ぶ代表作で

第二詩集となる『青猫』(1923)より

一部を抜粋

まず朔太郎自身による序文が

彼の詩を端的に表しています

↓↓↓

「私の情緒は、激情という範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるじやであり、かの春の夜に聴く横笛のひびきである。

ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかもしれない。けれども正しい見方はそれに反対する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーフではない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは装飾音である。私は感覚に酔ひ得る人間ではい。私の真に歌はうとする者は別である。それはかの艶かしい一つの情緒ー春の夜に聴く横笛の音ーである。それは感覚でない、激情でない、興奮でない、ただ静かに霊魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い実在への涙ぐましいあこがれである。

およそいつの時、いつ頃よりしてそれが来れるかを知らない。

まだ幼けなき少年の頃よりして、この故しらぬ霊魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明すれば鶏の声に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を恋して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「恋を恋する人」の愁をうたった。」

…略

「感覚的憂鬱性!それもまた私の遠い気質に属している。それは春光の下に群生する桜のように、或はまた核の酢えたる匂いのように、世にも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廃の薄暮をかなしむであろう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の抒情詩の主題である。」

…略

「かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとって神秘でもなく信仰でもない。またいわんや「生命がけの仕事」であったり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。

生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。」

…略

そして第ニ詩集『青猫』より

こちらを抜粋

↓↓↓

「憂鬱なる花見」

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた

桜の枝はいちめんにひろがっている

日光はきらきらとしてはなはだまぶしい

私は密閉した家の内部に住み

日毎に野菜をたべ    魚やあひるの卵をたべる

その卵や肉はくさりはじめた

遠く桜のはなは酢え

桜の花の酢えた匂ひはうつたうしい

いまひとびとは帽子をかぶって外光の下を歩きにでる

さうして日光が遠くにかがやいている

けれども私はこの暗い室内にひとりで座って

思いをはるかなる桜のはなの下によせ

野山にたはむれる青春の男女によせる

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝いていることか

いちめんに枝をひろげた桜の花の下で

わかい娘たちは踊をおどる

娘たちの白くみがいた踊の手足

しなやかにおよげる衣装

ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあっていることか

花見のうたごえは横笛のようにのどかで

かぎりなき憂鬱のひびきをもってきこえる

いま私の心は涙をもてぬぐはれ

閉じこめたる窓のほとりに力なくすすりなく

ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命をもとめ

なにものの影をみつめて泣いているのか

ただいちめんに酢えくされなる美しい世界のはてで

遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。

となっています

う〜ん

上記の詩もそうですが

朔太郎の目に映る日常の世界は

どこまでも彼の暗く孤独な内面を表す

いわば心象風景で

朔太郎は

幼い頃から何度も落第や入退学を繰り返し

勉強はそっちのけで

一方では普段からひとり思索にふけり

中学校在学中から短歌の発表を続け

やがてその才能を開花させていった、と

まあ普通の感性の持ち主ではなかったんでしょうね

と同時に

彼にとって創作活動は

身を削りながら言葉を紡いでいく

まさに苦難の道のりで

つくづく

研ぎ澄まされた感性がゆえの苦悩

そこはかとない疲労感が

作品の端々に滲み出ていますね

朔太郎いわく

「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである」

というわけで

いやあ

稀有な詩人によって綴られた言葉の数々

あらためて

必読の詩集です

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