映画『エッセンシャル・キリング』
2010年製作
ポーランド・ノルウェー・アイルランド・ハンガリー合作の
『エッセンシャル・キリング』
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監督、製作、脚本を手がけるのは
ポーランドの鬼才
イエジー・スコリモフスキ(1938-)
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その波乱に満ちた映画人生は
まだ幕を閉じていません
御年86歳ながら
いまだ現役を貫くスコリモフスキは
故国ポーランドを離れ
西側各国で映画を製作し続ける中で
自ずと
特定の国に与しない
きわめて個人主義的で
アナーキーな精神に貫かれた
特異な作風を志向
ということで
本作も
ご多分に漏れず
これまた
かなり異色の
サバイバルドラマです
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…
中東の荒野で
米兵を殺害したアラブ人兵士ムハマンドは
程なくしてヘリの爆撃を受け
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一時的に聴力を失う
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米軍に捕まり
激しい尋問を受け
別の場所へと移送
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…が
途中
護送車がアクシデントで横転
その隙を縫って
民間人を殺し
車を奪って逃走
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そうしてたムハマンドは
雪に閉ざされた深い森の中に
ひとり入っていき
兵士や犬の追手をかわしながら
ひたすら逃亡を続けていく…
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タイトルの
“エッセンシャル・キリング”とは
「不可欠(=必須)の殺害」
といった意味
雪に覆われた大自然
追ってくる兵士や犬、ヘリコプター
自身、足を負傷し
食べる物もない…
果たして
人は
そんな絶体絶命の状況に置かれたら
一体
何を優先すべきなのでしょうか?
何が重要なのでしょうか?
監督のスコリモフスキは
本作について
以下のように語っています
「政治的なことには興味ない。
政治はダーティゲーム。
作品を通して自分の意見を言うつもりはない。
逃げる男が野生動物になる。
生きるために相手を殺す。
それだけが重要だ。」
本作は
舞台となる場所も
主人公の男の素性も
具体的には明かされません
中東で米軍と対峙するアラブ人
といったところでしょうが
詳細はなんらわかりません
その上
主人公は劇中
一切、言葉を発しません
まあ
その苦悶の表情と行為から
観ている方は
彼の心のうちを察するにあまりありますが…
主演は個性派俳優の
ヴィンセント・ギャロ
う〜ん
本作でギャロは
極限状態に置かれた人間の
本能的な姿
いわば剥き出しの獣性を
ありのままに表現してみせます
躊躇なく人を殺し
木の実や虫を食べ
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釣り人から奪った生の魚にむしゃぶりつき
挙げ句の果ては
雪道を歩く子連れの母親を襲い
母乳に吸いつく…
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すべては生きるための行為
映画は
善悪では決して括れない
見栄も外聞もない
人間の本質的な様を
どこまでもミニマムな演出で
ただ淡々と映し出します
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ふと
殺害した際の返り血が
十字を形どっていて
まるで
宗教的受難を暗示しているかのようです
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と
それにしても
この雪原に見る
圧倒的な大自然の
恐ろしくも
美しい光景たるや
もう
言葉が出ませんね…
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と
どこまでも諦めない
生きることに対する執着を失わない
つくづく
ムハンマドの
一体何がそうさせるのか
信仰心?
いや
ここまで来ると
もはや
彼本人にもわからないでしょう
それは人間も含めた生物に
本来的に備わっている
動物的な本能
いわば
習性が
そうさせる
とでも言えるのではないでしょうか
と
飢えと満身創痍の状況下で
逃げ続けるムハンマドは
森の中で
一軒の家を見つけ
その前で倒れ込みます
そしてそこに住む
口のきけない女性に介抱されて
一命をとりとめます
そんな
つかの間の休息を経て
ムハンマドは
女性からもらった馬に乗って
家を出て行くのですが
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その馬上で倒れ込み
やがて命が尽きるのです…
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逃げ続け
生き続ける中で
備わった生命力が
人の優しさに触れることで
相対的に後退していく
つくづく
生物としての性を垣間見る
…と同時に
映画は
最期の最後に
人間としての理性や感情を取り戻し
魂の救済を得るに至った
そんなムハンマドを
ある種、聖なる存在として
映し出しているようにも見えます
う〜ん
なんとまあ
美しく本質的な表現でしょうか
というわけで
『エッセンシャル・キリング』
巨匠スコリモフスキの才気が結実した
異色の傑作
これは必見です
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おまけ
スコリモフスキの
『イレブン・ミニッツ』について
以前書いた記事をご紹介→こちら
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