映画『ヨーロッパ一九五一年』
1952年製作のイタリア映画
『ヨーロッパ一九五一年』
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前回からの流れで
監督・脚本、ロベルト・ロッセリーニ
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主演、イングリッド・バーグマン
のコンビによる作品となります
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1作目『ストロンボリ』(1950)の
次作に当たる本作も
かなり異色の
すごい映画です
…
夫の仕事の関係で
アメリカからイタリアに越してきたアイリンは
社交的な付き合いに追われ
多忙な毎日を送っていた
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しかしそれによって
家族の関係が疎かになっていき
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それが元で
幼い息子が自殺してしまう…
激しい自責の念に駆られ
悲嘆に暮れ
しばらく打ちひしがれていたアイリンだったが
いたたまれず
外に目を向けはじめる
そうして
シングルマザーの家で子供たちの世話をしたり
工場での労働勤務の現場に足を運んだり
肺病を患う娼婦の面倒を見て
最期を看取ったり…
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と
様々な葛藤を抱えていたアイリンは
未知の世界を知り
新たな体験をすることで
社会主義的志向を抱き
やがて
それを超えたところの
より広義な意味での人道主義から
宗教的価値観に目覚め
貧しい人々のために身を捧げるようになる…
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しかし
苦しむ人たちと共に生きたい
と願う彼女の
心の変容に対し
夫を始め周囲は
精神を病んだとみなして
彼女を精神病院に収監してしまう
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子どもたちをはじめ
彼女と関わり施しを受けた人々は
病院に閉じ込められたアイリンを嘆き
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現代の聖女だと崇める
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彼女は本当に聖女になったのか
映画は
アイリンの哀しみや慈しみをたたえた表情を捉えて
終わりを告げます
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う〜ん
なんという結末でしょうか
わが子を失ったことによる深い悲しみ
自己否定に苛まれ悶え苦しみ
何かにすがって街をあてどもなく彷徨うアイリンの
空虚で孤独な遍歴…
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ふと
アイリンの目を通して映し出される
不満と矛盾が渦巻くイタリア社会の現実
ネオリアリズモの真骨頂ですね
つくづく
映画は
聖女が生まれる諸条件が
1951年のヨーロッパにおいて整っていたということを
深い絶望の淵にいる
アイリンが辿る受難の道のりを通して
実証してみせます
特に本作では
戦後復興に湧くイタリア社会において
顕著になってきている
貧富や身分の格差の広がり
その一方で進む
現代人の精神的な荒廃ぶり
それを一身に背負ったアイリンが
苦悩、試練、危機を乗り越えた末に
聖女へと至る
つまり
映画は
聖女誕生という
いわば変革の機運が
この時代性の中で
醸成されていたということ
たまたま
そうした出来事が
彼女の身に降りかかったのではなく
あくまで必然的な事象として
アイリンは
なるべくして
聖女になった
という描き方をしているのです
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精神的危機に直面した彼女が
出会った人々
体験した出来事を通して
感じ、悩み、気づいたことは
すべて
聖女へと至るための
触媒であり
必然的な帰結であった
という
まこと象徴的な話と捉えているのです
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ふぅ
よくよく
ラストまでの展開はかなり早く
ちょっと唐突な印象は否めませんが
そこらへんの拙速感を
そっくり凌駕してしまう
バーグマンの
存在感
説得力のある表現
もう圧倒的なまでの美しさ
…ですよ
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って
途中
6人の子どもを育てる
シングルの肝っ玉母さん役で
あのジュリエッタ・マシーナが
登場しています(!)
う〜ん
バーグマンとマシーナの共演だなんて
なんだか不思議な光景でしたね
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いやあ
なんとまあ
見応え十分な映画でしょうか
というわけで
ロッセリーニとバーグマンのコンビによる
様々な示唆に富んだ
人間ドラマの力作
今更ながら
必見です
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