異なる表現手段

僕らは

よく社内で

「評論家になってはいけない」

などと口にします

う~ん

この場合の評論家の意味は

おおよそ

第三者的

傍観者風

やることやらずに口だけ達者

みたいな

まあ決して

いい意味では語られませんね

でも評論家という職業の人は

世の中にゴマンといて

今や

コンサルタント全盛の時代でもあるわけでして

ふと

僕らホールを運営する側

いわば

当事者

実行者

あるいは

ちょっと例えを変えて

映画なんかの作り手

評論家のような立場の人たちとでは

果たしてどっちが偉いのか

まあこれは後述するとして

ではどっちが

社会に有益なものをもたらしているか

と考えてみますに

僕はつくづく

往々にして

評論家の方なんじゃないかと

思ったりします

作り手は

その稚拙な表現ゆえ

独りよがりの枠を超えないものが

あまりに氾濫し過ぎているように思います

自分をさらけ出し

表現することが

なんとなくよしとされる

自己実現とか

夢を叶えるとか

そんな美辞麗句に支えられて

ビジョンも

技術も

戦略もないままに

実行だけが先走ってしまう

よく

実行こそが大事

実行しないと

成功したかどうかすらわからない

やらないで後悔するなら

まずとにかくやってみよう

弊社なんかでもさんざん

そういった話をしますが

果たしてどうなんでしょうか

もちろん小さなトライ&エラーを通して

向上していくということは

とても大事なことではありますが

あえて

僕はこれでは

やはりいかんと思います

まあ実力がないと

人々に受け入れられず

自ずと答えは出てしまいますが

なんて

ついひねくれたことばかり

言ってしまいましたが

結局何が言いたいのかといいますと

作り手も評論家もどっちも一緒

何が違うって

自己表現の手段が違うだけ

評論家にとっての表現手段は

その名の通り

独自の切り口の評論

思考力

文章力

あるいは明快に言い表してくれる

伝達力だったりします

では僕らが

なぜ評論家になってはいけない

という話になるのかといいますと

表現手段が異なるからです

例えば

ホールを運営している僕らにしてみれば

表現手段は

論ではなく

魅力的なホールを提供する

現場力や

実行力だったりします

映画監督なんかも

映画という

脚本や演技や映像や音楽や編集などの

集合体による表現力だったりします

つまりは

勝負するフィールド

世に問う分野が違うのです

お店を出店するのも

映画を作るのも

評論するのも

豊富な事例を駆使して

ホールを支援するのも

また

より細分化して

社員たちを鼓舞するのも

スタッフを陰で支えるのも

会議を取り仕切るのも

改善提案するのも

接客するのも

歌を歌うのも

ブログを書くのも

(このくらいでいいか…)

すべては

自己表現の手段です

それぞれが

自分たちの表現を追求し

世に問うわけで

もちろん

どっちが偉いとかじゃないんですね

あえてどっちが偉いかと

問うとすると

それはジャンルが違えど

どっちが社会に有益か

どっちの表現が優れているか

素晴らしいものを生み出しているか

人々の役に立っているか

という観点から

語られるべきだと思います

つまり

僕らはどんな立場であれ

どれだけ質の高い表現を

世に提供できるか

そこを飽くことなく

貪欲に追求できるか⁈

そこらへんが

商売であれなんであれ

大切なのかなと

つくづく思う次第です

おまけ

前衛的な実験映画作家であり

また独創的な映画理論や評論を著した

松本俊夫の古典です

↓↓↓

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  1. 廣川 英昭

    素晴らしいです♪
    φ(..)メモメモ
    ありがとうございました。

  2. チョー!

    >廣川 英昭さん
    意味不明な箇所もあったかと思いますが、お読みくださってありがとうございます(^O^)/。