意図と知識

つくづく

映画でも絵画でも

なんでもそうですが

よくよく

芸術とは

まず

その作者が

一体

何を表現したいのか?

何を訴えたいのか?

その意図を正確に読み取ることが

鑑賞上

最も基本的なポイントだと思います

絵画に至っては

これ特に大事で

たとえば西洋絵画ですと

19世紀後半にフランスで生まれた印象派以前は

まずその国の歴史的、宗教的背景などの予備知識なしに

とても鑑賞はできない

というより

実際のところ

鑑賞の醍醐味を得ることができない

それは現代絵画も本質的には一緒で

ただ己の感ずるままに

身を任せて鑑賞することも

時には大切ですが

画家の創作上の背景や動機、趣味嗜好など

なんらか情報を知った上で観るのと

なんの情報も先入観もなしに観るのとでは

まずその作品の意味すらも変わってしまいます

あえて後者がいい場合もありますが

個人的な感想としては

後者だと

往々にして

面白さが半減するのかなと思います

そういうものを踏まえず

あくまで自分独自の自由な解釈は

それはそれでダメとは言いません

自分の体験に基づく発見や共感

自分の求めているテーマに沿った何かを

作品に見出す的な見方が

あって然るべきですが

しかし

その前提として

つとめて正確な知識を伴った

作者の意図を解した上で

自分の解釈をすべきで

極力、主観を排して

まずは客観的な目で観るべきかなと思います

う〜ん

それはたとえば

海に浮かぶ山が

地中深くまで

根を下ろしている事実を知ることなしに

氷山の一角だけを見て

目に見える表面だけを捉えて

真っ当に評価することなどできない

といいますか

その評価はあまり意味をなさない

というのと同じ

よくピカソの絵を

子供が描いた絵と変わらないじゃないかと

冗談めかして揶揄する人もいますが

ピカソは

ただ単に

自由気ままに描いていたわけでは決してない

ピカソのパックボーンでもある

いわば卓越した素描、デッサンの技術があって

はじめて大胆に崩すことができたのです

そのピカソの

見えない技術の部分

知られざる過程の中にこそ

真実は隠されている

その部分、過程を

知識としてあらかじめ踏まえた上で

作品鑑賞に臨む

そうすることによってこそ

その作品に対する理解度

その作品から得られるインスピレーションが

いや増すというもの

まあ

若かりし頃の「青の時代」などを観ても

ピカソの画力は

それこそ隠しようもなく

如実に見てとれますがね

パブロ・ピカソ《海辺の母子像》(1902)

↓↓↓

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というわけで

ちょっとくどくなりましたが

感性は知識に

大部分、裏打ちされている

という話でした

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